主日の福音04/10/10
年間第28主日(ルカ17:11-19)
感謝に結びつくものを私たちも届けに行きましょう
十月に入ってすぐに思ったことは、急に風が強くなってきたということです。九月とは比べものにならないほど、日中はたえず吹いている感じがします。それなのに髪がなびかないのはなぜでしょうか。以前は風が吹けば髪がなびいていたような気がするのですが、なびくものも少なくなってきました。おまけに子どももなびかないのはなぜでしょうか。
さて今週の福音は、「あなたの信仰があなたを救った」というイエス様の言葉で結んでいます。このことから、今日の朗読をよく学ぶと、信仰について何か私たちに照らしが与えられると考えて良いと思います。私たちの信仰生活に役立つ何かを掴んで持ち帰ることに致しましょう。
十人の、重い皮膚病を患っている人がイエス様に憐れみを乞い求めます。イエス様はすぐさま彼らの求めに答えて、手を差し延べてくださいました。ところが神を賛美するために戻ってきたのはそのうちのたった一人で、しかもサマリア人でした。
サマリア人はユダヤ人が固く守っている民族同士の結婚からはずれ、他民族の血が混じっている、それは同時に他民族の宗教や礼拝が混じっているということでユダヤ人から軽蔑されていたのでした。こうしてユダヤ人とサマリア人とは仲が悪くなっていたのです。
病気は、十人全員が治してもらったのだと思います。イエス様はそれを見越した上で「ほかの九人はどこにいるのか」と仰っています。病気は確かに治ったのですが、そこからさらに先のこと、病気の回復をきっかけに神様が私と出会ってくださったことに気が付いたのは、外国人扱いされていたこのサマリア人一人だけだったのです。
病気が治って、あまりの出来事に我を忘れるということは起こりうると思います。ですが、病気が治ればあとは関係ないという態度は、いかがなものでしょうか。病気さえ治してもらえばこっちのものだと、九人が九人とも考えていたとは思いませんが、確かに、戻ってきて感謝したサマリア人との間には、明らかな違いがあるようです。
大声で神を賛美しながら戻ってきた一人の人と、ついに戻ってこなかった残りの九人との違いは何なのでしょうか。ここに、私たちが今週考えてみたい「信仰」「救い」の問題が含まれているのだと思います。戻ってきたサマリア人には、ユダヤ人からどう言われようが、イエス様が認めてくださるりっぱな信仰が育っていました。私たちも、何を「りっぱな信仰」と認めてくださったのか見きわめたいと思います。
まずは彼らとイエス様との最初の出会いに注目してみましょう。彼ら十人は、そろってイエス様を出迎え、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と声を張り上げています。一人が代表して声を上げたわけではありません。最初の出会いの時には、皆が同じ出発点に立っていたわけです。
十人は、イエス様を信じて祭司たちのところへ行きます。途中の会話もありませんので、ここでも誰かが際立っているとは言えません。問題はここからです。その中の一人は、感謝するためにイエス様の元に戻ってきたのです。つまり、朗読には書かれていない「見えない部分で」何かが変わった、九人とはどこかが違っていたのではないでしょうか。
いくつか考えてみたのですが、まずは「わたしたちを憐れんでください」と叫んだ時、この時すでにサマリア人だけは、病気を取り除いてもらうことだけではなくて、とにかくイエス様の憐れみを求めていたのかも知れません。人々の評判にのぼっていたイエス様がもしも救い主であるなら、病気で差別されている私たちに憐れみをかけて欲しい。そして病気が治った時、「神は私たちに目をかけてくださったのだ」とはっきり分かって、戻ってきたことは十分に考えられると思います。
ここから私たちが考えるべきことは、たとえ生まれた時にキリスト教と縁のない人であっても、神様は私たちみなに関わってくださると思い続けている人は、何かのきっかけを通してはっきりと神様の働きを知り、感謝するようになるということです。つねづね神様はいるに違いないと思っている人には、何かの出来事を通して「ああ神様っているんだなあ」と、近づいてくださるのだと思います。信仰は、病気の癒しに喜ぶだけでなく、そのことを通して神様がいると気付かせてくれるのです。
次に考えてみたのは、神様は私たちがどんな目に遭わされていても、神様を思い出し、感謝する気持ちに向けることがおできになるということです。そして感謝したサマリア人は、神様の働きかけに敏感に答える心を持っていました。
感謝したサマリア人は、イエス様と出会ったとき二重の重荷を担っていました。一つは救いから外れている外国人だという偏見です。誰もそのことで手を差し延べてくれる人はいませんでした。ユダヤ人でなければ、神の救いにはあずかれないのだとすれば、どんなに思いがあっても叶わない夢です。それは、希望のない生活だったことでしょう。
もう一つは、彼はほかの九人と同じように重い皮膚病にかかっていました。この重い皮膚病は、最近まで日本も法律で縛り付けていたように、病気になった人たちを隔離して、病気にかかっていない人と接触させないように切り離されていたのです。
イエス様の時代は隔離施設などはありませんでしたから、人里離れた場所に病気の人たちだけが集まって暮らし、もしも病気でない人たちが近づきそうになれば、自分たちから声を出して「私は重い皮膚病なので近づかないでください」と言わなければならなかったのだそうです。それらのことを義務づけられていたのですから、イエス様とのやりとりも、離れたところから大声でおこなったのでした。
このようにしてサマリア人には二重の重荷がのしかかっていたのですが、イエス様は「あなたがどんな暮らしに置かれていても、神に感謝を捧げることができるようにしてあげる」と心から思っているのです。そしてこのサマリア人は、二重の重荷の中にあっても、神様が近づいてくださったことに気付き、感謝しました。重荷が二重であっても三重であったとしても、私はあなたに信仰の喜びを伝えてあげる。感謝できるように変えてあげると、ここで教えているのだと思います。態度で感謝できる人は、りっぱな信仰が育っているのです。
これらの点を踏まえると、私たちも蒔かれた信仰に動かされて一歩を踏み出す必要があると思います。二点考えてみました。一つは、「神様はいらっしゃるんですよ」ということを届けてあげること、もう一つは、「どんな暮らしに置かれていても、神様はあなたに喜びを届けてくださいますよ。感謝できる何かを与えてくださるのですよ」ということを届けることです。
すでに実行されている素晴らしい例を挙げておきます。もうすでに私たちは、神様はいらっしゃるんですよと、知らせ始めています。それは、土曜・日曜の教会解放を通してです。今私たちの教会では守衛さんを立てて土日教会を開けるようにしています。これは、「神様はいらっしゃるんですよ」という見える働きかけだと思います。神様がいないのなら、教会に守衛さんを立てる必要はありません。
そこがただの公園であるなら、いつも明けっぱなしにして、誰もいなくてもいいのです。けれども、ここには尊い方がおられるので、皆さんに案内もするし、もしも不敬なことをしている人がいれば注意をして、ここには神様がいらっしゃるのですと知らせ続けているわけです。
次に、「あなたがどんな暮らしに置かれていても、神様は喜びを届けに来てくださいます」ということを知らせるわけですが、私はときおり、自宅で寝たまま、教会に通うことのできないお年寄りにこのようなCDを届けることにしています。ここには、ミサが始まるところから終わりまでの全体が録音されています。
聖歌も、皆さんの受け答えも、聖書の朗読や説教も、すべて録音して届けています。そうすると教会に来ることのできない方々は、その場で教会のミサの雰囲気を味わうことができるわけです。教会に行きたくてもいけない、そんな重荷を背負っていても、神様はあなたに喜びを届けてくださるのですよと、私はこのCDを通して知らせたいと思っています。
あるおばあちゃんに、「○○さん、長生きしとって良かったろ〜」と言いましたら、「ほんとですね」といって、涙を流して喜んでくださいました。私たちは、「どんな暮らしに置かれていても、神様はあなたに喜びを届けてくださるのですよ」ということを伝えてあげる使命があると思います。
「神様はいらっしゃるんですよ」「どんな暮らしに置かれていても、神様はあなたに喜びを届けてくださるんですよ」。この二点を届けに行くために、この一週間私たちは実社会に出かけていきましょう。そしてできれば、次の日曜日にも「大声で神を賛美するために」教会に戻ってきたいと思います。
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‥次の説教は‥‥
年間第29主日
(ルカ18:1-8)
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