主日の福音04/10/03
年間第27主日(ルカ17:5-10)
多い信仰ではなく、揺るぎない信仰を願う

最近の頭痛の種を一つ。最近気が付いたことですが、金曜日になると頭が痛いことがあるんです。ちょうどこの前の金曜日がそうだつたのですが、この曜日だけ頭が痛くなるんですね。それが、土曜日になるとあれつ?と思うくらい頭痛が引いてしまうんです。頭痛の種という言い方がありますが、あれは当たっていると思います。頭痛は、種ほどのものでも悩ましいことがよく分かりました。

ですが、まだ原因は掴めていません。おおよそ原因は分かってはいるんですが、それを確かめるために来週の金曜日を待とうかなと思っているところです。金曜日に限って頭が痛くなるのですから、金曜日の何かが頭痛の種になっているに違いありません。原因が特定されて、いち早く処方箋を見つけて、頭痛の悩みから逃れたい今日この頃です。

今、頭痛の種と言いましたが、そのものが種ほどの大きさであつても、明らかに影響するのがこの種でもあります。福音は、信仰を増してくださいと、弟子たちが願うのに答えて、からし種一粒ほどの信仰があれば、あなたにとって十分だ、種ほどの大きさであっても、問題はそれが揺るぎないものかどうかということなんだよと教えてくださいました。

頭痛の種であれば、いかに小さな種でも悪い影響を与えるし、信仰の種であれば、いかに小さなものであっても人をあっと言わせる大きな働きさえできるのだというわけです。

私はここでもう一つ考えたいことがあります。それは、弟子たちが願ったことは、ここでは信仰を増してくださいということでしたが、場合によっては少し的はずれの時もあって、それは取り上げてもらえないということを意味しているかも知れません。つまり、私たちが願うことはいつも適切かというとそうでもなくて、的はずれであればもうその時点で取り上げてもらえないということもあるのではないかと思います。

鼻が低いので高くしてください。私はあと5センチ身長が欲しいので背を高くしてください。神様が「それはもっともだ」と思っておられる場合は別として、たいていのこうした願いは、的はずれな願いに含まれるのではないでしようか。信仰は願う人すべてに種として蒔かれます。からし種ほどの信仰で十分働く力を持っていると諭されたところを見ると、信仰を増してくださいという願いはおそらく的はずれだったのでしよう。むしろ願うべきだったのは、「不信仰(マルコ16:14)」から立ち直らせてくださいと願うべきだったのだと思います。

実はこの信仰を増してくださいと願うできごとにはその前置きがあつて、今日の朗読よりも少し前を読めば、使徒たちが信仰を増してくださいと願った理由がよく分かります。今日の朗読のすぐ前で、イエス様が寛大に許してあげることについて、次のように諭しておられます。「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい」(ルカ17:3-4参照)。

おそらく使徒たち(弟子たち)にとって、それはできる範囲を超えていた、不可能だったのではないでしょうか。自分たちの力ではそこまでできない、信仰が足りないためにできないのかも知れないから、それでは私どもの信仰を増してくださいと、願い求めたのだと思います。

彼らは、信仰を増してもらえば、赦すことができる、イエス様のような信仰を持つことができたら、不可能と思えた赦しの回数も可能になるかも知れないと、そう思ったのではないでしょうか。

ところがイエス様は、信仰を多いか少ないかで考えている使徒たちに注意を促します。イエス様は違う答えを示します。少ないと思われる「からし種」ほどの信仰で十分です。なぜでしょうか。それは、信仰は突き詰めると神様を信じているということ、信頼しているということだからです。

神様を信頼している人は信仰を持っています。その人には、神様がその信仰に答えて働いてくださいます。七回赦すことは、私の考えでは不可能かもしれませんが、神様がそれを励ましてくだされば、私たちは七回赦しを願いに来た人を赦してあげることができるのだと思います。私の目からは不可能と思われ、桑の木に海に根を下ろせと言うのと同じくらい難しいことでも、神様が励まして赦しの力を与えてくださるわけです。

そう考えるとき、少ない信仰とか、多い信仰というのはあるのでしょうか。信仰が神様を信じることと言い切ることができるのであれば、少なめに神様を信じていますとか、多めに神様を信じていますというのはどこか的はずれだと思います。使徒たちが「信仰を増してください」と言ったときに、的はずれだったかもしれないと私が考えたのも、信仰は多い少ないではないという理由からなのでした。

では、信仰について何を願うことができるのでしょうか。私は、すでに信仰を持っています。神様を信じているからです。信じていないというお方は別として、もうすでに信じています。何を願えばよいのでしょう。こう願ってみてはいかがでしょうか。私どもの信仰を磨いてください。ふらふらしないようにしてください。こんな願いが適当かもしれません。

次に、善良で忠実な僕を紹介しながら、「あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」(17:10)という呼びかけをしました。これはじつは冒頭の信仰を増してくださいという話で考えた答えと深く関わっていると思います。信仰が揺るぎないものとなるように、信仰に磨きをかけていただくように願うなら、その願いは取り上げてもらえると思います。そしてその結果私たちがいただくものは、さらに磨かれた、ふらふらしない自信のようなものだと思います。そして、今日の朗読の結びでイエス様が勧めている態度も、自信がなければそれは言えない言葉だと思うのです。

「しなければならないことをしただけです」。私たちは多くの場合、自分がしたことを並べたがります。覚えてもらうため、自分のことを良く思ってもらうためです。私はこれもしてきましたあれも続けました・・・それは、裏を返せば、ちょっと自信がないからそう言うのかもしれません。私はしなければならないことをしただけですとは、よほどの自信がなければ言えないせりふだと思うのです。

今日、野球のニュースでイチロー選手の偉大な記録が繰り返し放送されていました。イチロー選手であれば、「私は目標に向かって努力し続けただけです。ただそれだけです」と言うかもしれません。彼がそう言えるのは、揺るぎない自信があるからでしょう。自分の野球を貫けばよいと言えるだけの努力を積み重ねたからだと思います。

せっかく願うのであれば、ふらふらしない信仰を願いましょう。イエス様の前で「私は生きている間、しなければならないことをしただけです」と、信頼のうちに自分をゆだねることができるように生活を整えておきましょう。それを可能にするのは、ふらふらしない信仰だと思います。そしてこの揺るぎない信仰こそは、私たちが願い続けてよいものではないでしょうか。
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(ルカ17:11-19)
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