主日の福音04/09/26
年間第26主日(ルカ16:19-31)
この世では「言うことを聞くかどうか」が大事

皆さんには各自「将来設計」というものがあるかと思いますが、多くの人が65歳になったらそれまでとはがらっと違う予定を考えていると思います。つまり定年後、ということです。司祭は現状では75歳が引退時期とされていますが、75歳では待ち長いので、65歳になったらあることを実行に移そうと思っています。それは、昔一緒に働いた主任神父様の冗談からヒントを得たものです。

こういうことです。その主任神父様は、ご自分は65歳になったら早めの引退をすることにしていて、誰もが引退を認めてもらえるように細工をするのだと、その方法まで細かに話してくれました。「これは引退やむなし」と、みんなに引退勧告されて大手を振って引退して、次の日から毎日釣りに行くことにしているのだと、大まじめに話しておりました。

私は腹抱えて笑いながらも、なるほどねぇと感心して聞いておりました。そこで私も、62歳頃から3年計画で、徐々に症状が現れてきたとみんなに思い込ませて、65歳になったら船の上で毎日寝泊まりしようと計画しております。引退司祭が司祭館にいると、現役の主任神父様に迷惑かけますので、畳が一枚敷けるくらいの船を手に入れて、そこから教会に通おうかなあと思っています。

とうとう頭がおかしくなったと、3年かけてどんなことを繰り返すかと言いますと、たとえば朝の6時と晩の6時に毎日ミサをしに行って、朝の6時は当たり前のミサですが、晩の6時にも、今日は朝のミサをしてないと言い張って、今が朝の6時だからミサをするんだと大騒ぎするというのはどうかなあと考えております。とうとうおかしくなったということで、安心して毎日釣りに行って、ちょっとだけ現役の主任神父様の手伝いをして暮らす。これが私の描いている定年後の暮らしです。

いちおう予定ではおかしくなった「ふり」をして、うまいこと引退勧告をいただく計画なのですが、もしも「ふり」ではなくて本当におかしくなって「おーい朝のミサばするぞ」と言って晩の6時にみんなを集めることがあっても、みなさん同情して集まってもらえるでしょうか。もしも同情してくれるようでしたら、引退するときには伊王島と高島に私を置いてもらえれば嬉しいです。

さてこういう狼少年のようなことをして首尾良く引退できたとしても、私は死後に裁きを受けなければなりません。70歳になっても80歳になってもまじめに働き続ける神父様と比べたら、中田神父はおそらく人一倍厳しい裁きを受けることでしょう。ですから、今日の福音で神様の裁きを自分に当てはめるなら、私は金持ちが裁かれる様子を自分に重ねて考えます。

イエス様がたとえの形で話された死後の様子を注意深く観察しましょう。今回は三つ取り上げてみたいと思います。まず、審判の結果を厳かに伝えるアブラハムはこう言いました。「子よ、思い出してみるがよい・・・」(16:25)。「思い出してみなさい」と仰るのですから、私たちは生前記憶があやふやになったり、完全に記憶を失ったとしても、「あのこと、このことを思い出してみなさい」と言われて、思い出せるようになると考えられます。記憶ははっきりよみがえり、私たちは自分で生きていた時の振る舞いを振り返ることになるということになります。朝のミサを今からするんだと言って、晩の6時に大騒ぎしたことも、目の前に並べられて審判がくだります。

また、思い残すことがあったとしても、さかのぼって生きている私たちの世界に何かを世話してあげることはできないことも分かります。金持ちは自分と同じ目に遭わないように言い聞かせてくださいとアブラハムに頼みますが、自分では何もできないのです。おかしくなったふりじゃなくて、おかしくなるまでもう少し待てばよかったなあと思っても、もう後の祭りです。

そして最後に、この世で先ずしなければならなかったことは、「聞き従う」ということだったことが明らかにされています。「モーセと預言者に耳を傾ける」これは聖書の教えに聞き従うということです。聖書の教えに聞き従うことができていればだれでも救いに導いてもらえる。死者の復活というあっと驚く出来事は、すべての人が必ずしも見る必要はないと諭されています。生前に大事なことは、聞き従うという態度なのです。「神父様何言っているんですか。今は晩の6時ですよ。ミサの時間じゃありません」と、生き残った涼子先生に仮に言われたとして、おとなしく言うことを聞いていれば、裁きは違った結果になったかも知れないのです。

一つひとつのことが明るみに出されるということ、またたとえ思い残すことがあっても亡くなってからでは何も手を出すことができないこと、今生きている間に一番必要なことは、聞き従うということ。この三つを、私たちそれぞれの生活でふさわしく生きているかどうかよく思い返してみましょう。特に私は、聞き従うということに重きを置いて話したいと思います。

イエス様はしばしば「聞くことの大切さ」について注意を呼びかけました(マルコ3回、ルカ2回)。パウロは、ローマの信徒への手紙の中で、「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ローマ10:17)と言っています。聞くことの大切さは、イエス様も、イエス様に導かれたパウロも、強く言っていることなのです。

実際、聞くことができてみることのできないものがたくさんあります。私たちはイエス様のこの世での様子を見ることができませんが、聖書の朗読を通して聞くことはできます。イエス様のおこなった奇跡や、話されためぐみ深い言葉をその場に立ち会って目で見ることはできませんが、時代が離れていても国が違っていても、耳で聞くことはできます。ですから、聞くことは多くの人にとって大切なことなのです。

ある人は、耳が聞こえません。同時に目が見えないかも知れません。これほどの重荷を背負っている人でも、手を使って話をする手話を通してとか、点字という書物を通して、イエス様の言葉を味わうことはできます。ですから、いちばん広く私たちが神様の裁きの前で尋ねられることは、「見たか」ということではなくて、「聞いたか」「聞いて、それに従ったか」ということが、厳しく問われるのではないでしょうか。

そう考えてみると、ふだん私たちが使っている次の言葉も、もう少し慎重に考える必要があると思います。それは、「言うことを聞かない」ということです。

私たちは、たとえば罪の告白の中で、「親の言うことを聞きませんでした」とか「目上の言うことを聞きませんでした」というようなことを言います。

これまでは、「言われたのにしなかった、聞かなかった」ことだけを考えてきたかも知れませんが、よく考えると、これは聞き従うことを私たちに何度も繰り返して話してくださったイエス様に背いていることだと思います。

「お父さんお母さんの言うことを聞きませんでした」という告白は、「聞く耳のある者は聞きなさい」と仰って聞いて従うことを求めたイエス様に背いていたということではないでしょうか。聞くべき人の注意を聞かなかったのは、「聞く耳のある者は聞きなさい」と仰ったイエス様に聞こうとしなかったことにつながっていくように思います。

「私は言うことを聞きませんでした」「私は勧めを聞き入れませんでした」こうしたことは、元をたどっていくと、聞き従うことを求めたイエス様に背くことにつながり、「これは私の愛する子、かれに聞け」と雲の中から仰った父である神に背くことでもあると思います。あるいは、父から聞いたことをおこなって従順の道を示してくださったイエス様と、何の関わりもなくなることを意味しているのかも知れません。

「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」(16:31)。今日のたとえ話の結びも、「死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」と、最後まで聞くことの大切さを強調しました。先ず問われることは、あなたはその人の言うことを聞いたのですか、聞いて従おうと努力したのですかということです。

来世で苦しむ人と慰められる人のあいだに深い淵があるかどうか、それは分かりません。ですが、神の言葉を聞いてそれを行おうとした人かどうかで、結果が明らかに違ってくることだけは確かなようです。私の心に語りかける声に、いつも正直に生きることができるように、ミサの中で照らしを願うことにいたしましょう。
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‥次の説教は‥‥
年間第27主日
(ルカ17:5-10)
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