主日の福音04/09/19
年間第25主日(ルカ16:1-13)
残された時間で、次の生活を備えよ

今日の福音の中に、金持ち主人の財産を任せられていた管理人がたとえに出てきます。この管理人はこれまで主人の財産をかすめ取っていたことを告げ口されて追放されようとしていました。

主人は時間を区切ってきました。「会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない」(16:2)。限られた時間内に、あなたはどんな道を選びますか。そのことを私たちに考えさせてくれると思います。

会計報告まで大目に見てもらっていたこの管理人は、あわてて会計報告を用意することになります。告げ口されていた通り、管理人は主人の財産の使い込みをしていたのかも知れません。職を失うことは避けられませんが、それでも残された時間にできることで、将来の保証を取り付けようと懸命に知恵を働かせました。

この管理者は、主人が債権者(貸しのある人々)と交わした証文に生き残る道を見つけました。主人が残していた貸し借りの証文は、管理人が予想していた通り当時の商習慣に則って書かれていました。主人が用意した証文には、「利子を含む総額」が返すべき分として書き込まれていたのでした。

本当は、ユダヤ人がユダヤ人に負債を負わせるとき、利子を付けて取り立ててはいけないことになっていましたが、実際には同胞であるユダヤ人のあいだでも、利子を加えた総額で作られた証文がまかり取っていたのです。借りる側は必要があって借りていたのでしょうから、同胞の間では利子を付けるのは掟に反していると思っていても、だまって言うことを聞く以外にありませんでした。

管理人はそこに目をつけました。油を納めていた人、小麦を納めていた人を呼び、彼らの証文に思い切った減額を加えたのです。これは、仕事を失いかけている管理人にとって、主人と債務者の両方に気に入られる方法でした。総額いくらと書いた証文を本体いくらと書き直して利子を免除すれば、債務者は大変助かります。これで、債務者に恩を売ることがでしょう。

また、総額いくらと書いた証文で主人が取り立てていたのを本体だけ取り立てることに書き直しても、主人にも得をする部分がありました。それは、本体いくらと書き改めることで、律法を守って貸し借りをする善良な主人であるという良い印象を広く人々に植え付けることができるからです。主人の評判が良くなることを、主人が悪く思うはずはありません。こうして管理人は、何とか自分の責めを負うことなく、また職を失ってからの食べていく方法まで確保したのでした。

ここまで話を聞いていて、私が皆さんに悪知恵の働かせ方を指南していると考えてはいけません。先週も念を押して話したことですが、イエス様が話すたとえは本当に伝えたいことを十分に理解するためのつなぎです。たとえの中の管理人は、限られた時間の中で、主人にも損害を与えず、小作人にも喜ばれる手を思いついて円満に職を解かれたのですが、そこから、何を学べばよいのでしょうか。

こういうことではないでしょうか。私もまた、いつの日か自分の主である神に決算を求められる身分にあります。その時慌ててももう間に合いません。今、この世に生きている間に、人々にも喜ばれ、神にも受け入れられる何かをしておかなければならないと、そういうことを教えようとしているのではないでしょうか。

たとえ話の管理人は、職を解かれるまでの限られた時間に、次の生活に移った時に受け入れてもらえる段取りを付けました。同じように私たちも、与えられている今の時間で、次の生活(来世の生活)に移った時に受け入れてもらえる準備が必要だと思うのです。

来世の準備は、今この世でしかできません。これから話すことは結婚の勉強会の時にもしばしば取り上げる話なのですが、その際私は結婚する若い夫婦にとって身近に感じる次の例を挙げて話を進めます。

それは、子供の出産にまつわる話です。人間は生を受けてから十ヶ月ほど母親のお腹の中で育っていきます。少し本を調べれば分かることですが、その間お腹の子供は「羊水」という液体の中に浸かっているわけです。

ここで仮に、今のことだけ考えるなら、息を吸ったり吐いたりするための鼻や口は、まったく必要がないのではないでしょうか。液体の中に浸かっているのですから、息を吸うわけではありません。そうであれば、鼻や口を準備する必要なんてないはずです。あるいは、心臓や肺を準備することだって、液体に浸かっているのだから必要ないということにならないでしょうか。

実際はそんなことはありません。お腹の赤ちゃんは、今十ヶ月の間は液体の中に浸かっていても、お腹の外に出たらすぐに息を吸ったり吐いたりしなければならないからです。次の世界でさっそく必要になるから、今のうちに準備を怠りません。

お腹の中の赤ちゃんは、今限られた時間に、次の世界の準備を怠ってはならないことを良く教えてくれます。イエス様のたとえ話に出てきた管理人が職を失うまでのわずかの時間に次の生活のための準備を怠らなかったこととぴったり重なるのではないでしょうか。限られた今という時間に、私たちは来世の準備を、たとえ今を生きるために必要を感じないとしても、今備えておかなければ次の世界では準備の時間は与えられないのです。

では最後に、「次の世界で必要なもの」とは何でしょうか。「次の世界で役に立つもの」と言ったら、何かに思い当たるかも知れません。財産でしょうか、名誉でしょうか、身につけた専門的な知識でしょうか。

おそらく、それらのものは来世にはあまり役に立たないと思います。むしろ、神への信仰心こそが、来世ではものを言うのではないでしょうか。私は、あなたへの信頼を失わずに生きてきました。私は、あなたが信頼にふさわしい方であることを、配偶者に、子供や孫に、また神様を知らないいろんな人に、熱心に話しました。そして私が信頼する神は、人に情け深く、人を心から赦してくださる方であることを知らせるために、私も人に情け深く、また人をたびたび許してきました。

こういう態度こそが、次の世界ではいちばん役に立つことだと思います。そして、こうした神への信頼に結びつく一つひとつの行いは、今、この世で実行しなければ、来世で準備する時間は与えられないのです。

「どうしよう。そうだ。こうしよう」(16:3-4参照)。たとえ話の管理人が職を失おうとしていたその時に、自分が次の生活で受け入れられる道を懸命に模索しました。結婚する方々にしばしば話すことですが、お腹の赤ちゃんは私たちに次の世界で必要なものは、今しか準備できないことをみごとに語ってくれました。

私は、この世という限られた時間の中で、どんな生き方を送るのでしょうか。当然、次の世界で必要なものを準備する、そのための時間や都合を惜しまずやりくりする。この気持ちが必要だと思います。

最後に、次の世界の準備として、今しかできないことを二つ三つ挙げておきます。ミサの中の聖書朗読は、自分の信仰心を神様に示す格好の機会です。今聖書を読まなかったとしたら、おそらく来世ではそんなチャンスは巡ってきません。

一回くらいやってもいいけどなあと思っていること、パンとぶどう酒の奉納、献金をつないで廻ること、共同祈願の祈りを唱えることなど、一回くらいだったらいいけどなあと思っていることは、今しなければ来世では決してそんなチャンスは廻ってこないと思います。

その時になってあなたは、神様の前でどんな申し開きをするのでしょうか。「あなたはミサに来て、どんな過ごし方をしていたのか」「私は、いつもミサに来てただ突っ立っていただけです」と言うよりは、他の言い方をしたほうが、神様への信頼を保って生きてきたことを伝えやすいのではないかと思います。今、この世の時間や富を使って、来世に繋がることをすべきだと思います。
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‥次の説教は‥‥
年間第26主日
(ルカ16:19-31)
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