主日の福音04/09/12
年間第24主日(ルカ15:1-32)
悔い改める見込みのある人を捜し出す

先週休暇を取って五島に帰りましたが、例によって慌て者の私は、出発の時から大変な目に遭いました。伊王島9時47分に合わせて5分前に港に着くようにと信徒会館に降りてみたら、いつも停めてある場所に車がないのです。台風に備えて共同墓地のそばに動かしていたことを忘れていました。ですが大きめの旅行鞄を抱えていましたので、共同墓地までそれを抱えて階段を駆け上がり、大汗をかいてターミナルに着いた時には船に飛び乗るタイミングでした。危うく船に乗りそこねるところでした。

うっかり者の私にしては、この日はすぐに思い出したうちです。ひどい時には、何でもないようなものを見つけ出すのにほぼ一日を費やすこともあります。それも、いつも使っているものを見つけ出せないのです。つくづく、私は結婚生活には向いてないと思いました。もしも結婚していたら、毎日嫁さんに笑われて暮らすか、それはここ、あれはあそこと、先に見つけられて小さくなっていなければならなかったことでしょう。私にとっては、いざというときの捜し物はオリンピックで金メダルを獲るよりも大変なことなのです。

もちろん、世の中の多くの人は、捜し物で苦労するなんてことはほとんどないのでしょう。羨ましいことです。ですが、捜し物でしばしば痛い目に遭う人は、今日の福音が人ごととは思えなくなるのではないでしょうか。

「銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚をなくしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか」。当時の銀貨一枚はおそらく五千円はくだらなかったでしょうから、全部で五万円、もしもへそくりのお金だったとしたらたいした金額です。

夫に「なくした」とは言えないでしょうし、夫と一緒に家の中を捜すわけにもいきません。それは必死になって、家中を掃いて見つけ出すに違いありません。友だちや近所の女たちを呼び集めてというところが興味深いのですが、もしも家族がいての話であれば、これはほぼ間違いなくへそくりだったでしょうし、近所の女たちと喜び合うというところがさらに面白さをかき立てる気がします。

さて、うっかりなくした物を必死で捜す様子で、イエス様は何を言いたかったのでしょうか。つねづね中田神父が説明してきた点なのですが、イエス様はたとえ話を覚えてもらいたくてたとえ話をしているのではありません。この点は口酸っぱく言っておきたいと思います。イエス様がたとえを話すのは、本当に伝えたいことをより確実に分かってもらうために、効果的に伝えるためのつなぎとして、たとえを話しているのでした。

では、本当に伝えたいことは何だったでしょうか。それは、「一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある」ということでした。神は悔い改める一人の罪人のためには、悔い改める必要のない九十九人の正しい人よりも心を砕いてくださるということでしょうか。

私はこの神様の様子を、「悔い改める見込みのある人を必死で捜し出すこと」とまとめてみたいと思います。百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失った時に考えたことは、まだそんなに時間も経ってないし、捜せば見つかる見込みがあると判断したのだと思います。時価五千円相当の銀貨も、まだ旦那にばれていないし(へそくりだと仮定しての話ですが)、どう考えても外に持って出た覚えはない。だとしたら、捜せば見つけ出す見込みがあると考えたのだと思います。

私はこの、「見込みがある」と考えたことに必死で努力することが、今日の朗読からの学びなのではないかなあと思っています。イエス様は直接「見込みのある努力をしなさい」とか「見込みのないことからは手を引きなさい」と仰っているわけではありませんが、あえて言うなら、別の場所で次のようなことを話しています。

それは、兄弟に忠告をする時の心構えを説いた箇所です。まずは二人だけのところで忠告しなさい、聞き入れなければほかに一人か二人、連れて行って忠告する。それでも聞き入れなければ教会に申し出なさい、それでも聞き入れなければその人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさいと仰います。文脈をあえて横に置いて考えるなら、見込みがあるうちは忠告をしなさい、見込みがないと判断するに至ったら、もう関わるなというようなことです。

そこでわたしたちの教会に目を向けたいのですが、実はわたしたちの教会のなかには、手を付ければまだ見込みのある部分がたくさん残されているのではないかなあ、と思うわけです。何よりもまず考えてみたいことは、教会に来て、日曜日のミサに参加する人は、本当にこれで目一杯なのだろうか、ここから考えてみたいのです。

羊を持った人のたとえ話では、「九十九匹を野原に残して」とありました。あと一人、教会に足を向ける見込みのある人がいるとすれば、それは必死に努力する価値があるということです。そのあと一人二人が、教会に来ない理由は何なのでしょうか。もしかしたら私が転勤してきたことを知らないかも知れません。実際夏休みに顔を見るまで、私が誰か知らない人たちがいました。

または、教会運営に手を貸してくれない人がいるかも知れません。そういう人が何人もいるとして、あの人とあの人は、きっかけがあればまた足を向けてくれるのだがなあということもあるでしょう。では、どんなきっかけがあればいいのか、必死で考えてみましょう。イエス様は、立ち返る人が一人でもいれば、天使たちの間に喜びがある、それだけの価値があると仰っているのです。

教会運営とやんわり言いましたが、はっきりした例を出せば、教会維持費と言ってもいいです。どうしたら、あと一人でも二人でも、教会維持費を納めてくれない人に納めてもらうことができるだろうか。そうしたことも、見込みがあれば真剣に考えて良いと思います。

小学生の教会学校。あと少しで、全員出席なんです。でも、まだ全員ではありません。ですが、これこそ見込みのある目標だと思っています。私は、見込みがある限り、全員出席を目指して努力し続ける覚悟です。ちなみに過ぎた金曜日は休暇を取るので教会学校は休みだと念を押したのですが、舟津で神父様が降りたのを見たとかで、けいこの時間に二人子供がやってきました。「絶対勉強したい」とその子たちが言ったんです。何という美しい話でしょうか。私は心を鬼にして、今日は帰れと言いました。何と冷たい神父でしょうか。

この千人を切るくらいの土地に住んで、未だに私が誰か分からないと、それは短パンにTシャツ姿では無理もありませんが、例えばスータンを来てウロウロしても「あの神父様はどこから来た神父様やろうか」とつぶやく人が百人のうち一人でもいるなら、それは必死に努力する価値があると思うのです。

私たちの教会には、見込みのある部分がまだまだたくさんあると思っています。その一つでも二つでも、拾って実を付けていこうではありませんか。あー、やればできるんだなあと感じられたら、今まで無理だと思っていたことができるようになるんです。どうぞ、たった1%のための努力と思わずに、見込みがあるならやってみると、その気持ちでこれから先も教会をもり立てていきましょう。
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‥次の説教は‥‥
年間第25主日
(ルカ16:1-13)
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