主日の福音04/09/05
年間第23主日(ルカ14:25-33)
憎むほど真剣に身内と命と向き合う

今日の福音は、弟子の覚悟を説いた大切な箇所です。ですが、イエス様は大変難しいことを求めておられると感じます。「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」(14:27)。こんなに難しいことを求めてくるのですから、きっと選ばれた人にイエス様は弟子の覚悟を求めているのだろうと考えたくなります。

ところが、イエス様が示した「乗り越えなければならない壁」は、本当はある選ばれた人たちだけに示されたのではありません。考えれば分かることですが、イエス様はこう仰ったのでした。「だれかがわたしのもとに来るとしても、『父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら』わたしの弟子ではありえない」。

ある選ばれた人、たとえば今の時代の司祭や修道者を真っ先に考えてみると、「父・母」は当てはまりますが、「妻・子供」は当てはまりません。イエス様が示されたうちのいくつかは、私には当てはまらないのです。

ところで、信徒の皆さんに当てはめてみましょう。「父・母・妻・子供・兄弟・姉妹」。もしかしたら、私よりも当てはまるものが多いのではないでしょうか。ですからイエス様は、ある限られた人に弟子の覚悟を求めているのではなくて、あなたも含むすべての人に、呼びかけているのだと思います。

その、何よりの証明が、呼びかけの最後の言葉です。「更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」。命のことを聞かれているのですから、命を持っている人はすべて、弟子の覚悟を求められているのではないでしょうか。

ここまでは、納得していただいたということにしましょう。けれども、イエス様の要求は、生身の人間にとってあまりにも高すぎるのではないでしょうか。私たちに、憎めと仰っている事柄は、逆に決して憎めないものばかりなのではないでしょうか。

そこで私も、考えられる限りの知恵を絞ってイエス様の言葉をかみ砕いてみようと思いました。「憎む」という言葉をどう置き換えたら、私たちにもっと分かりやすくなるでしょうか。

二つのことを考えておきたいと思います。一つは、聖書には初めに書かれたもとの言葉があるということです。それはつまり、ギリシア語という言葉の問題です。本来、ギリシア語の言葉でそのまま読めば、伝えたい本当の意味が分かるはずなのです。

ですが、残念ながら私たちは誰もギリシア語そのままで聖書を読むことができません。日本語に翻訳してくださった方々は、ギリシア語のもとの言葉に近いものを、慎重に選んで、「憎む」と訳したのだと思います。言葉の問題があって、イエス様が本当に言おうとしていることがつかめないというもどかしさがあります。

それは、私たちの日本語でも同じことです。日本語には音を表すたくさんの言葉がありますが、それはなかなかほかの外国語には置き換えることはできないと思います。「水道の蛇口をキュッとひねる」私たちは誰でも分かりますが、日本人以外の人はキュッとひねるは分からないと思います。「ひねる」は分かっても、「キュッとひねる」は分からないのではないでしょうか。

ほかにも、「帯をシュッと締める」と言えば、何となくかっこよく締めていることが日本人には分かりますが、日本人以外の人は「シュッと締める」を丸暗記はできても、感じることは難しいだろうと思います。

ですから、日本語にするときに一つのギリシア語は言葉は一つの日本語で表さなければなりませんので、「憎む」としか訳しようがなかったのだと思います。その辺をふまえて、二つ目の点「言葉を補ったり言い換えたりして考える」ようにしてみたいと思います。

おそらく、憎むの反対の言葉は、「愛する」ということだと思います。「父・母・妻・子供・兄弟・姉妹を愛する」は微妙な説明がなくても分かります。ここで考えなければならないのは、その反対のことです。父母を愛するの反対、ということです。妻・子供を愛するの反対とは何か、ということです。

私が考えてみたのはこういうことです。父・母を前にしても、イエス様の弟子にふさわしい態度を変えないということ。イエス様の弟子は、弱さを十字架として担い、不正を拒み続けます。父・母・妻・子供・兄弟・姉妹が弱さを持っているなら、それは十字架として一緒に担ってあげる、もしも不正を行うなら、父・母・妻・子供・兄弟・姉妹だから曖昧にするというのではなくて、諫めるということです。

身内の弱さに、私たちは甘いのではないでしょうか。家族の不正に、私たちは見て見ぬふりをするのではないでしょうか。イエス様はそういう傾きを持っている私たちすべてに、これを憎まなければ、あなたは弟子とは言えないと仰っているのではないでしょうか。

いちばん手をつけにくい場所、いちばん痛いところを正すためには、憎むほどの覚悟が必要なのかも知れません。それで、ギリシア語のもとの言葉をひとことで置き換えようとすれば、憎むという、この言葉しか当てはまらなかったのだろうと思います。

イエス様は、すべての人にご自分の弟子であることを求めておられます。身内に甘い、身内だけは例外扱いにする。どんな時代、どんな国でもそれは起こりうることだと思います。それをイエス様は今日戒めてくださいました。私は自分の生活の中で、イエス様の弟子として自分を保ち続けているでしょうか。

外に出たときだけ弟子で、身内にはイエス様の求めていることは投げ捨てるというのではいけません。弟子として生きていきたい。いつもこの気持ちを忘れないようにしたいと思います。一人ひとりがイエス様の弟子として育てていただけるよう、ミサの中で恵みを願いたいと思います。
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