主日の福音04/08/29
年間第22主日(ルカ14:1,7-14)
みことばを文字通り生きた人にはピンとくる

「一を聞いて十を知る」という言葉がありますが、夏休みが終わる前に、中学生の指導を何とかしてあげようと思いまして一日錬成会の案内を保護者向けに用意しました。錬成会の案内に盛り込む内容を話し合うために、前もって中学生を集めて話してみたのですが、電話で話し合いに参加した高島の中学生が、実際にできあがった案内を見て次のように言ったのです。

「あー、神父様、この『課外活動』というのがボーリングのことなんでしょ?」ボーリングってもろに言うなよ、せっかく課外活動と書いて、親の了解を得ようとしているのに、ボーリングをしにいくと思われるやかね。あくまで教会巡礼をして、そのあとで課外活動もするとぞ。ちゃんと「課外活動」って書いたら、課外活動と読みなさい。

「課外活動と書いてボーリングと読む、その心は?保護者は安心するでしょう」。何というのでしょうか、普段からこれくらい頭の回転が速ければ話も早いのですが、こういうことだけ頭の回転が速くてビックリしてしまいます。保護者の皆さん、課外活動は課外活動であります。

普段の生活でもそうなのですから、神が人間に語りかける言葉にも、一を聞いて十を知るというような姿勢を目指して頂きたいものです。その鍵となるのは、イエス様の話していることのなかで、どれが話の中心で、どれが中心を補うものか、その辺の見極めができるかどうかにかかっていると思います。

その見極めは、日曜日毎に聖書を読み聞く私たちにとって、毎週の積み重ねにかかっていると思います。では、今週の朗読のなかで、鍵となっているイエス様の言葉はどれでしょうか。また、鍵となる言葉を補う部分は、どの辺を差すのでしょうか。

今日は、手っ取り早く中田神父のほうから、結論になる部分を引き出しておきたいと思います。二つあると思います。一つは、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」という言葉です。もう一つは、少しまとめますが、「お返しできない人を招待しなさい、そうすれば、あなたは報われる」というものです。

謙虚さを保って日々を過ごしてきた人にとって、今取り上げた短い言葉「へりくだる者は高められる」これさえ聞けば十分なのです。「高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と聞いただけで、これまでどんなことにも謙虚さを持って生きてきたことは間違いではなかったと、一つの鍵となる言葉から十を知ることができます。

もちろんすべての人がそのような状態にあるわけではありませんから、招待を受けた時に上座に座らず、末席を選べばみんなの前で面目をほどこすというたとえも添えて、自分を見せびらかすような生き方は、神様から低く見られるのですよと、生活を振り返るためのヒントも示してくださいます。イエス様はしばしば、誰もが同じだけの実りをいただけるように、たとえを添えてくださるのです。

たとえ話が鍵なのではありません。末席を選びなさいという世渡りをイエス様は教えたいのではありません。それは、ルカ福音書の著者であるルカの言葉の使い方にはっきり現れます。日本語では少し分かりづらいのですが、「高ぶる者は低くされ」の「低くされる」という言葉、「へりくだる者は高められる」の「高められる」という言葉は、「神が高めてくださる・神がその人を低くする」という意味合いの言葉遣いになっています(神的受動形)。

「高ぶる者は低くされる」。この世の高ぶる人を低くするのは、ほかでもない神様です。ですから、ここが神様が私たちに伝えたい結論だと分かります。「へりくだる者は高められる」これも、だれかが高めてくださるのでなければその通りにはなりません。人間にはできないことですが、神はそれがおできになります。これも、神様が高めてくださるのです。

この、イエス様が伝えたい結論と、結論を分かってもらうための「もののたとえ」との見分けができるかできないかは、私たちが信仰の面でどんな歩みを辿ってきたかでずいぶん違ってきます。よくものの見えている人が「一を聞いて十を知る」ように、信仰の歩みを通して準備のできた人にとっては、イエス様が最後に言いたいこと、話の結論を聞いただけで多くを学ぶのです。

先週の福音朗読を例に挙げましょう。私が朗読のなかから取り上げた言葉は、「狭い戸口から入るように努めなさい」という言葉でした。わたしたちのなかには、これだけで何かを掴むことのできる人と、何が言いたいのかさっぱり分からない人が実際にはいらっしゃるのです。それは、あなたがこれまでに狭い戸口から入ろうと努めてきた人かどうか、これまでの信仰の歩みで差がつくわけです。

そこで、私はこんなことをお願いしたいと思います。朗読された福音書のなかで、今週の鍵をズバリ言い当てているのはどこだろうか。この点に注意を払って、これからは朗読に耳を傾けてもらいたいのです。その際、私たちはだれも、一度ですべてを知り尽くすことなどできないのですから、できれば前もって目を通しておくと良いでしょう。

「私だったら、ここを取り上げて今週の朗読のまとめとしたい。この箇所には、私がこれまで歩んできた道のりが報われる言葉がズバリ込められているから」。そんな箇所を見つける訓練を積んでいきましょう。この点一つ気がけるだけで、毎週のミサはぐっと深まっていくと思います。

こうしたミサのあずかり方を積み重ねていくうちに、ある時たくさんのことを学ばせて頂く日曜日がやってくると思います。その時はっきりと、イエス様の救いの言葉を実は私は生きていたのだと悟るわけです。すべてみことばを生きているわけではありませんが、ある部分については、私はイエス様の言葉を文字通りに生きていたのだと、読み返しているうちに気がつく日がやってくると思います。

イエス様の招きを私は知らず知らずのうちに歩いてきたのだなあとある時イエス様は気付かせてくださいます。その時こそ、今日イエス様が約束してくださった「へりくだる者が高められる日」「神様が私を高めてくださる」その時なのではないでしょうか。
‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第23主日
(ルカ14:25-33)
‥‥‥†‥‥‥‥