主日の福音04/08/22
年間第21主日(ルカ13:22-30)
常々その戸口を出入りすれば狭くない

私たちは、いつも時間と場所の中に置かれて暮らしています。何を考える場合でも、この時間と場所を横に置いて考えることはできません。私が十年前にこちらの小教区にお世話になっていたらどうだったろうかと想像することは自由ですが、実際には今この時でなければ、皆さんと出会うことも、この土地に暮らすこともなかったわけです。あえて一つだけ言わせてもらうと、十年前であれば、司祭館の問題は別の解決方法があったかも知れません。

さてこの私たちから切っても切り離せない時間と場所の問題ですが、もう少し突っ込んで考えると、「過ぎた時間」「今」「将来の時間」の三つに分けて考えることができます。その中で、いちばん考えなければらならいのは、「今の時間」です。これは誰が考えてもそうなるのではないかと思います。

「過ぎた時間」「過ぎたこと」は、変えることができません。また、「将来起こること」を前もって用意することもできません。そう考えるとき、私たちにせいぜいできることと言ったら、今の時間をより良く生きるということです。この基本中の基本について、今日の福音朗読は考えさせてくれると思います。

ある人がイエス様にたずねました。「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」。ここまで考えてきたことと重ねるなら、この人がたずねたのは「将来のこと」「将来起こること」です。イエス様は神の子として、この質問に直接答えることもできたでしょうが、未来のことは私たちにはどうにもできないことです。

はじめに考えたように、私たち人間にとっていちばん大切なことは「今の時間」なのですから、イエス様は「救われる者」について、「今の時間の中で考えるべきこと」を答えとして示してくださいました。「狭い戸口から入るように努めなさい。」つまり、今の時間にできること、今考えておくべきことこそ、あなたにとって必要な答えですと仰りたいのです。

「過ぎた時間」あるいは「将来のこと」よりも「今の時間」が大切だということは既に考えましたが、「今の時間にできること」はどんなことでしょうか。大きく二つに分かれるかなと思います。一つは、「目の前にあることを今おこなってみる」ということ、もう一つは、「後回しにする」ということでしょう。

私たちは経験で十分に分かっていることですが、後回しにしたことは、結局どうなるのでしょうか。当然のことですが、後回しにしたことは消えてなくなるはずもなく、どのみちあとでしなければなりません。そしてしばしば、「あの時しておけば良かった」と言うのです。

後回しにした苦い経験をお持ちの方は、イエス様の言葉がよく分かるのではないでしょうか。「狭い戸口から入るように努めなさい」。ある時私たちは、すべき事を後回しにしました。後回しにしたことは消えてなくなるどころか、更に問題は大きくなってのしかかってきます。時には取り返しがつかないことさえあります。

救いの話は「将来起こること」に違いありませんが、そのために何かができるとすれば、それは今しかないのです。だから、「どちらかを選ばなければならないのであれば、狭い方を選びなさい」と強く勧めているわけです。

主人に締め出しを食った人が食い下がります。「御一緒に食べたり飲んだりしましたし、わたしたちの広場でお教えを受けたのです。」ですがこの人は食べたり飲んだりしている時に話してくれた「勧め」を気にも留めていなかったのかも知れません。教えを受けた時に、「そんな面倒な教えは今の私には関係ない、あとで考えよう」といって後回しにしたのでしょう。主人に退けられてしまうこの人は、狭い方を選ぼうとしませんでした。今できることと、今できるけれども後回しにしようという気持ちの中で、狭い方を選ばなかったのです。

私たちの生活はどうでしょうか。今積み上げないといけない努力を、後回しにしてはいないでしょうか。今積み上げることができるのに、そこから目を背けてはいないでしょうか。

私は学校の先生ではないし、会社の上司でもありませんので、勉強のことや仕事のことに口を挟むつもりはありません。ですが、任せられた信徒をあずかる司牧者として、こんな態度は「今できること」を「後回し」にしていることですよ、その責任は、ほかでもない、あなたが引き受けるのですよと、言い続けなければなりません。また、中田神父みずからが、生活の中で見える姿を示さなければなりません。

たとえば、一日に三回、私たちは食べ物を口に運んでいます。どのみち、食べなければならないのですが、食前の祈りをするかしないかは、できることを今するのか、後回しにするのかの境目なのではないでしょうか。どうせ食べるのです。ですがしばしば、私たちは狭い戸口を避けようとするのです。

一日の終わり、目を閉じない人は誰もいません。どのみち目を閉じて、眠りにつくのですが、私は、狭い戸口から入るように努めているでしょうか。疲れてヘトヘト、今日は何もできない。そういう日もたまにはあるでしょう。イエス様はそんな疲れた人、重荷を負う人を責める方ではありません。イエス様の言葉をよくよく考えれば、「狭い戸口から入るように努めなさい」「入るように努めなさい」です。「狭い戸口を通れない人はもうダメです」とは仰っていないと思います。

日曜日のミサ(あるいは日曜日のための土曜日のミサ)。どんなに忙しい人でも、二週に一回とか、月に一回は休みを日曜日に振り替えることはできると思います。やろうと思えばできたのにしませんでした。このようなことは多々あるのではないでしょうか。

今何をするかと考える時、後回しにしようと考えるか狭い戸口から入るように努めるか。いつも私たちはどちらかを選んで生きています。何かを後回しにした時、それはそのまま過ぎた時間の出来事となります。今しなかったことが、ある場合は取り返しがつかなくなることもあるのです。

小さな子供から、お年寄りまで、または健康な人も、病気で寝たきりの人にも、今できることがあると思います。ありがとうという言葉を口に出して言うこと、お世話する人がどうぞと声をかけることなど、今できることは何か見つかると思います。

狭い戸口から入るように常々心がけている人は、今できることを一つずつ引き受けて、それを積み重ねていく人です。神はその人をご自分の懐に入れてくださいます。また、狭い戸口から入る人は、今の生活の中で、神に守られて生きる幸せを感じることができるのではないでしょうか。

教会を通して示される神のすすめを、私たちの選ぶべき戸口として受け取りましょう。ひとりで引き受けるのではなく、そばにいてくださるキリストと引き受けていくのです。そのことをしっかり感じ取るためにも、ミサの中で照らしをいただくことにしましょう。
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‥次の説教は‥‥
年間第22主日
(ルカ14:1,7-14)
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