主日の福音04/08/15
聖母の被昇天(ルカ1:39-56)
神は憐れみをお忘れになりません

今日私たちは、聖母被昇天をお祝いしています。六世紀頃から、マリアの死去の日として東ローマ帝国内で祝われていた伝統が、七世紀には西ローマ帝国内の教会で祝われるようになり、カトリック教会の祝日として定着しました。

1950年(昭和25年)、ピオ十二世教皇は、マリアが霊肉ともに天に上げられたことを教会の教えとして宣言し、古くから祝われている伝統というだけでなく、信ずべきこととして世に示したのでした。

聖母の被昇天は、マリアが神によってここまで高められたということを思い起こさせます。私たちも、神に心を開いた人間をここまで高めてくださることを喜び合いながら、あわせてマリアの生き方に流れるすばらしさを確かめることにしましょう。

マリアのすばらしさを、今日選ばれた福音朗読から考えてみたいと思います。朗読の後半、「マリアの讃歌」と言われる詩が紹介されています。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」から始まる一連の詩です。この詩の前半は神がマリアご自身を取り上げてくださったことをたたえるものですが、詩の後半は、すべての人にマリアの目は注がれ、すべての人に注がれる神の慈しみをたたえます。

ここで、すべての人に注がれたマリアのまなざし、それは同時に神がすべての人に注がれる慈しみそのものなのですが、ここを取り上げて、今日の学びとしたいと思います。ここに、聖母が霊肉ともに天に上げられるにふさわしいと認められた理由があるのではないかと思いました。

まず、私たちの日常の経験から出発したいと思いますが、私たちは何かを語るためには、体験や、経験が必要です。もっと分かりやすく言うと、見たこと、聞いたことでなければ、私たちは何かを人に語ることはできないのです。真実を語るときは当然のことですが、嘘をまるで本当であるかのように語るためにも、頭の中ではっきりと思い描いたものでなければ、人に語ることはできないわけです。

オリンピックが始まりましたが、そのちょっと前に毎年夏の風物詩である高校野球が始まりました。オリンピックもそうかも知れませんが、高校野球はテレビとラジオで常に熱戦の模様を流し続けています。テレビで実際に見ていないときでも、ラジオから流れる声を聞きながら、私たちは十分に高校生たちの熱のこもったプレーを脳裏に思い描くことができます。ラジオ中継に携わっている人の解説のすばらしさも手伝っているわけですが、声で聞くだけでも、様子を誰かに知らせる助けになります。ですが、もしも見てもいない、ラジオでも聞いていないことを、熱弁をふるうことはできないのではないでしょうか。

このように、人間は見たことを土台にして何かを人に語り始めます。少なくとも、その様子を音で確かめていなければ、真実を伝えることはできませんし、嘘も言えないことが分かります。私たちが物事を語るためには、真実は当然のこととして、たとえ狼少年が嘘をつくのであっても、出来事を詳しく頭に思い描くとか、音にしてみるのでなければ、生き生きと人に伝えることはできないのです。

そこで、マリアが残したと言われる今日の賛美の詩、後半の部分をもう一度読み返してみましょう。私がここまで話したことをふまえて、マリアの讃歌の後半部分を読み返すことにしましょう。ひとまず、朗読を繰り返してみたいと思います。

「主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます。その僕イスラエルを受け入れて、/憐れみをお忘れになりません、わたしたちの先祖におっしゃったとおり、/アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」

すでに確認したことですが、人間は何かを語るために、出来事をはっきり思い描かなければ語れないはずです。「主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます。」これは、私たちの経験から考えるならば、このような出来事を見たのでなければ、語れないはずなのです。

マリアは、先の様子を、その目でご覧になったのでしょうか。狼少年は見てもいないものをまるで見てきたかのように頭に思い描いて嘘を話して回るのですが、マリアの場合はどう理解すればよいのでしょうか。

私は、マリアがみずから賛美した出来事をその目で確かに見届けたわけではないと思います。かといって、マリアがいい加減なことを、見もしないことを言いふらしているということでもないと思います。マリアとて私たちと同じ生身の人間です。見てもいないことを、あるいは少なくとも思い描くこともできないようなことを、人々に語るということはたとえマリアであっても不可能だったのです。

ですから、マリアの讃歌に述べられていることは、神がマリアに示された確かな出来事だったのです。神は、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富む人々を空腹のまま追い返すのです。

今それらのことが現実にはまた実現していなくても、達成されていなくても、神は必ずいつか、マリアに示されたことをすべて実現してくださるのです。そしてそれは狼少年の夢物語ではなくて、神が責任を持って、その通りに実行されるのです。マリアが人々に語り継ごうとしているこのすばらしい様子は、神様に完全に信頼しているマリアの心の中では、少しも疑いを挟む必要のない世界なのです。

そこで私は考えるわけです。マリアが霊肉ともに上げられるほどの栄誉にあずかることができたのは、この、神様にしかできないすばらしい理想の世界を、マリアが全く疑うことなく信じた、心に思い描いてそれがすでに手に入ったかのように神を賛美した、この完全な信頼を神が高く取り上げてくださった結果なのではないでしょうか。

弱さや欠点ばかりの私たちにはとても思い描くことのできない神の支配、神がすべての人を慈しんでくださる理想の世界を、マリアは二千年前にはっきりと思い描いていたのです。神様にしかできないこと、神様だけにできることを信じて全く疑わない。このマリアの態度は、霊魂も体も神によって引き上げてもらうに十分なのではないでしょうか。

私たちは同じ霊と体を持つ人間の中に、これほどのすばらしい鏡をいただいたのですから、みずからの生活をあらためて見直すことにしましょう。神の働きを決して疑わないマリアの信頼に、私たちが見習おうとするなら、私たちは生活の中でもっと神様の働きに信頼できるようになると思います。

神様がいかに慈しみ深い方でも、世界に何百万人といる飢えた人を良い物で満たすことなんてできっこないと、疑いを差し挟むなら、私たちの信仰は曇り始めるのです。マリアは今は完成されていないけれども、飢えた人を良い物で満たしてくださる神様の力をはっきりと思い描いていたのです。

神様の働きにいっさい限度をつけることなく、完全に信頼を寄せたマリアを、私たちの生活の鏡としましょう。「神様は私を助けることができるかしら」。ほんのちょっと疑いを挟むことで、私たちの信仰は曇ってしまいます。深い信頼の故に高められ、天に上げられたマリアに倣って、神様のできることに限度をつけてきたこれまでの態度から、最後まで信頼を寄せる態度に変わっていくことができるように、聖母の取り次ぎ、保護を願うことにいたしましょう。
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‥次の説教は‥‥
年間第21主日
(ルカ13:22-30)
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