主日の福音04/08/08
年間第19主日(ルカ12:35-40)
つねづね準備するか、ある瞬間集中するか

「あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」(12:40)。今日の朗読箇所の締めくくりで、鍵となる言葉です。「主人が帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人」「主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましている人」どれも、結びの言葉「用意していなさい」ということに深く関わっています。

イエス様は「あなたがたも用意していなさい」と仰います。イエス様が伝えたいことを、少しずつ確かめていきましょう。まずは、何のために用意するのか。この点から入っていきたいと思います。

当然のことですが、私たちが準備をしたり練習したりするのは、本番に力を発揮するためです。試験勉強であったり、日曜日に開かれるペーロン大会のためであったり、いろいろです。イエス様は何のために私たちに準備を促しているのでしょうか。それは、結びの言葉の後半部分、「人の子は思いがけない時に来る」つまり、いつイエス様と出会うチャンスが巡ってきても良いように、日頃用意しておきなさいということなのです。

イエス様と出会う、イエス様を身近に感じるチャンスが巡ってきた時に、それを逃さないためには準備が必要ですが、ではどんなことを心がけていればよいのでしょうか。二通りの心構え・準備の仕方を紹介しておきます。別にこれがすべてと言うつもりはありませんが、二つ思い付きました。

一つは、イエス様といつ出会うかも知れないと、一日中思い巡らしておくことです。今何をしているかにかかわらず、いつもいつも、その時に神様と向き合うことになるかも知れないと、たえず思い続けておくことです。

そんなことできっこありません。そう思うかも知れません。ですが、ある人たちには、この「イエス様と向き合うその時をたえず思い続ける」ことが期待されていると思います。たとえば、司祭やシスターです。司祭・シスターは、いつどこにいても、どこに引っ張り出されても、常に神様と向き合っている人として振る舞い、話すことを期待されているのです。

つねづね、何を聞かれても、いつ聞かれても、神様と無関係な態度や返事をすべきではありませんし、言い方は不適切かも知れませんが、どんなときでも神様に心を向かわせる気の利いた言葉を添えることが期待されていると思います。

先週の日曜日です。長与でペーロン大会が開かれて、馬込の中学生(高校生も?)たちも遠征して参加してきたそうです。はかばかしい結果ではなかったようで、お疲れさん会を開いている席で、ついでのつもりで私はこうつぶやきました。「頑張ったよなあ。でも期待した結果じゃなかったよなあ。できることはすべてやってきたんだよなあ。何か、一つ足りなかったんじゃないかなあ」。

きっと、その答えは分かったのだと思います。厳しい練習を積んだ。更にあと一つ、といえば、そうです。神頼みです。神頼みと言っちゃあ失礼かも知れませんが、すべての努力を本番で思う存分発揮するために、神様に頼るのは賢いことです。長与に行く前に、何かの形でそういう神様に自分をまかせることをしていれば、さらに納得のいく結果を手に入れたのではないでしょうか。

たとえばこのように、司祭はどんな場面でも、出会っている人たちを神様と結びつけるちょっとしたことを話すべきだと思います。ですから司祭は、いつも、どんなときにも神様と人々を結びつけるきっかけ・道具になることが期待されているのです。そのためには、いつも考えていなければなりません。

魚を釣っている時も、バイクでストレス発散のために島の中を暴走している時も、あの人を神様に結びつけよう、この人に神様のことを思い出させる道具に自分がなろう。いつもそう考えているわけです。うそ〜って顔をしている人がいますが、ウソじゃありません。

「あなたがたも用意していなさい」。もう一つの用意の仕方があります。置かれた生活によっては、一日すべてを神様と向き合うその時の準備に当てていては、成り立たないという人が当然いらっしゃると思います。「自分はいつ神様に声をかけられても大丈夫か?」そのことばかりに気をとられて仕掛けた網を引き上げていたら、機械に手を巻き込まれるかも知れません。「私の暮らしぶりは、神様に顔見せできるだろうか」と思い詰めて木材を電動ノコに運んでいては、木材だけじゃなくて手もバラバラになってしまうかも知れません。

そのような方々に考えてもらいたい用意の仕方は、ある日、ある時間、完全にこの世から手を引いて、神様のために時間を作るという方法です。大工さんが家を建てます。より良い仕上げを求めてさらに時間をつぎ込むのも一つの道ですが、施主と大工さんたちは区切り区切りで、家の完成のために祈ってもらうことを知っています。その時間はいっさい仕事から手を引いて、神様と向き合うために時間を捧げるわけです。

神様を信じない人であれば、こんな祈りの時間はもったいないと思うかも知れません。果たしてそうでしょうか。人間の予想できないような事故や災難を免れるために、祈りを通して完全に神様に委ねるということは、私は優れた知恵だと思います。

そういう意味では、今日中学生高校生たちが(あえて日頃教会の下でしか会ったことのない中学生高校生が、と言っておきましょう)いったん練習を手放して、真剣に勝負に向き合うために、神様の前に座りに来た、ミサに来たというのはたいした心構えだと思います。明日の試合が心配でたまらないというのであれば、ミサに時間を割かずに今日も練習するという方法もありました。けれども、真剣な勝負をするために、努力は全部したけれどもあと一つ足りないよなあ、それは神様に祈ることだよなあと気が付いた。こうしてミサにやってきた。この態度は偉いと思います。

これは余談ですが、ペーロンも二ヶ月に一回ずつやってくれれば、最低でも二ヶ月に一回はミサに来てくれるでしょうから、いいのではないかなあと思いますが、皆さんいかがなものでしょうか。ついでの話、努力もした、お祈りもした、その上さらに一つと言われたら、皆さんは何と答えますか?私だったら、最後のあと一つは、「美女軍団の応援」と答えるでしょうね。「やや」美女軍団?

「あなたがたも用意していなさい」つねづね考え続けて神様と向き合う生き方もあります。人々を神様と結び合わせるために、そのような人々も必要です。あるいは仕事上そうもいかない多くの方々は、時間と曜日を区切って、たとえばミサの時間に、この世からいっさい手を引いて、神様のために時間を使いましょう。または、一日のどこかの時間で家庭祭壇に集まり、区切りをつけましょう。

この一区切りをきちんと付けながら生活を繰り返すなら、その人には必ず、「思いがけない時にやってくるイエス様」と、うろたえることなく向き合うことができると思います。慌てて神頼みではなくて、自分は目標のためにいつも努力しているし、時には神様に祈って更に力を願っていると、落ち着いた心でその日を迎えることができると思います。

いざというときを落ち着いて迎えるために、また神様と向き合う大切な時にうろたえることのないように、神様のもとに来て一週間の区切りを持つ。一日の区切りを家庭祭壇に集まって持つ。それぞれ意識して、習慣づけていきたいと思います。
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‥次の説教は‥‥
聖母の被昇天
(ルカ1:39-56)
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