主日の福音04/08/01
年間第18主日(ルカ12:13-21)
命のためにどんな世話をしますか

私はここ数日、ペーロンのドラたたきのために練習に降りています。降りていってみると、職場で働いている人たちはほとんど見たことのある人ばかりでした。ところが、十代の若者たちがいっぱい漕ぎ手の中におりまして、「私が誰か分かるね」と言いましたら、連中から「分かりません」と言われたんです。

「おーおー、分からんと言えるのも今のうちぞ。四月から教会に来た神父やけんな、覚えてくれよな」と挨拶をしておきました。そこで、皆さんにナゾかけをしたいと思います。私は週に何回も練習に降りていって顔を覚えてもらえるように努力しています。だったら、中学生・高校生の十代の若者たちにも、私が誰か知らんで終わらせずに、週にいっぺんくらい教会に来て私の顔を覚えに来てもらっても罰は当たらないのではないでしょうか?

もう一度言いますが、私は週に何度か練習に降りています。十代の若者に、週にいっぺんでいいから、教会に上がってこいというのは、無理な相談でしょうか?私ばっかり下に降りて、だあれも上がってこないというのは、これは筋が通らないのではないかと、そういうナゾかけをしておきたいのです。

ミサの初めにも少し話しましたが、月の初めの日曜日は、中高生も含めて若手の人にミサの中の担当を積極的に引き受けてもらいたいと思っています。せめて、この月の初めの日曜日、顔を出して、若手の人たちで聖書朗読・共同祈願・献金集め・奉納と、手伝って欲しいなあと思っています。そこまで今年いっぱいのうちに導いていきたいと思っていますので、神父さんに頼まれたから仕方ないなあというのでも構いませんので、協力してください。

さて今日の福音は、「命のためにあなたはどんな世話をするのですか」というふうにまとめて良いと思います。まず、イエス様の二つの言葉を押さえておきましょう。ひとつは「人の命は財産によってどうすることもできない」という言葉で、もう一つは「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」という言葉です。

財産を構えること、富を積むこと。どちらも、おおいに関心のある事柄だと思います。命のためにおこなう世話のうち、これらがいちばん大事だと思っているかも知れません。ところが、イエス様は、人の命は財産によってはどうすることもできないとはっきり仰るのです。

イエス様の言葉に、私たちは納得しているでしょうか。どこかで、いのちの世話を、富や財産に頼っているということはないでしょうか。「これから先何年も生きていくだけの蓄え」を確保したら、これで命の心配は要らなくなったと、私たちも思うのではないでしょうか。どこかでそのような思いがあるとすれば、私たちがつねづね考えている命の中身と、イエス様が繰り返し呼びかけている命の中身とが、あるいは食い違っているのかも知れません。

おそらくそうでしょう。私たちがつねづね考えている命の中身は、この地上での一生涯とほぼ同じものと考えていると思います。この地上での一生涯のことであれば、財産は多いほうがよいに決まっているし、これから先何年も生きていくだけの蓄えがあれば、それに越したことはありません。それなのに、イエス様と話がかみ合わないのは、やはり、命の中身は、私たちが考えている中身では不十分だということではないでしょうか。

実は今日の福音朗読の直後でも、イエス様は命の世話について大切なことを話します。次のような言葉です。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ」(ルカ12:22-23)。食べ物が必要なのはこの世での話です。衣服もそうです。つまり、命をこの世だけのものと考えると、本当に必要な世話に目が向かなくなってしまいますよと注意しているのです。

もうこの辺で、私たちもよく目を見開いて、命の中身をイエス様の見ている中身にまで気を配ることにしましょう。イエス様が見据えている命の中身、それは神との関わりを失わない命のことです。どれだけ暮らしぶりが充実していても、社会生活の上で満ち足りていても、神との関わりが切れているなら、あなたの命は豊かではないのです。神との関わりを命のお世話の中に盛り込んでいなければ、本当の意味で命を豊かに保っているとは言えないのです。

いくつかのグループに当てはめて考えてみましょう。小学生。夏休みになって、はりきって海水浴を楽しんでいることでしょう。けれども、夏休みの間ずっと祈りを休んでいたら、真っ黒に焼けたその肌だけが立派になっただけで、神様を愛する心は育っていないことになります。

神父様は夏休みの間、朝のミサに来てそれからラジオ体操に行くように勧めています。そうすれば、学期中よりももっと、神様とともだちになれるチャンスです。今のところ、半分くらいの友だちが何とか頑張ってきています。まだ来てない子どもたちも、命を本当に育てていくために、朝のミサに来るようにしましょう。

中学生高校生・青年の皆さん。第一日曜日、ミサの役割分担を引き受けてみましょう。いちばん後ろにヤモリのようにはり付いていてはいけません。「そこにいる」だけではなくて、役割分担を通して積極的に参加し、一人ひとり、ミサに参加する意義を高めましょう。

ミサの時間、そこにいるだけというよりも、役割分担を引き受けるほうが参加する意味が深まるのは当然のことです。積極的に参加する人は、イエス様が見ている広がりで命の中身を見ている人です。それこそが、命を本当の意味で豊かにする近道です。

婦人会・壮年会の皆さん、皆さんのなかにはそろそろ蓄えをどう分配しようか、考えている方もいらっしゃることでしょう。子どもたちにすべて分配し尽くすのもひとつの方法ですが、神の前に豊かになる財産の使い方も、考えてみてはいかがでしょうか。子どもたちのためにびた一文残さないというのは問題ですが、神様のためにびた一文使わないというのもどうかと中田神父は思います。

たとえば、この教会堂は神様を礼拝する場所です。礼拝を充実させるために、私に与えられている時間と私の財産を少し差し出すというのは、立派な行いです。礼拝のために時間や蓄えを使っても、目に見える命には何も返ってくるものはないかも知れません。ですが、イエス様が見据えている命の中では、あなたの行いはひとつ残らず数えられているのです。

先祖のためにミサをお願いした、ロザリオの集まりに思い切って参加してみた、朝のミサが始まる時間に合わせて、家庭で朝の祈りを唱えてみた。神との関わりを豊かにするために時間を使ってくれた、蓄えを使ってくれた。それら一つひとつのことは、神様の前で決して忘れ去られることはないのです。

一つだけ、私の悩みを打ち明けたいと思います。日曜日のミサの中で、子どもたちが着替えて侍者をしてくれていますが、私は今ひとつデザインに納得していません。小さい子が着ているときはまだ見た目も我慢できますが、この同じ服を六年生がかぶって侍者をすると、かえってみっともないような気がします。

では、お賽銭で子どもたちの侍者服を一新すればいいではないか。それがそうもいかないのです。この三ヶ月で戴いたお賽銭に、私は手を付ける勇気がありません。毎週一円玉五円玉を含むお賽銭を集め続けて、ようやく危機的状況を脱したところなのです。おそらく、年内いっぱいは、いっさい手を付けるわけにはいかないと思っております。

そこで、賽銭から安心して侍者の服も買えるように、聖体拝領の受け皿だって、ペアで買いそろえることができれば、反対側にぼさ〜っと突っ立ってなくてよいわけです。そうしたいですが、そうもいかないのです。その辺を汲んで頂いて、持っているものを目に見える命にだけ使い切るのではなく、教会の礼拝を充実させるために、あと少し回して頂ければなあと思います。もしも、言い過ぎていたらゴメンナサイ。

私たちはそれぞれの生活の中で、目に見える命の世話ばかりに目がいくと、イエス様が見据えている命の世話まで目がいかなくなってしまいます。この世の蓄えで、あるいはこの世の時間で、神様との関わりを豊かにしよう、そんな思いを持ち続けましょう。神様との関わりを高めようと心を砕く人は、この世の生活でも必ず心豊かに暮らせる人だと思います。
‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第19主日
(ルカ12:35-40)
‥‥‥†‥‥‥‥