主日の福音04/07/25
年間第17主日(ルカ11:1-13)
求めなさい、そうすれば、与えられる

今日の礼拝に取り上げられている三つの朗読のうち、信徒の方が朗読してくださった最初の朗読と、中田神父が朗読した福音とは、選び抜かれて慎重に組み合わされていると思います。

一番目の朗読では、神がある町を滅ぼそうと心に決めたのに、アブラハムが一生懸命思いとどまるように願うとその願いを汲んで思い直してくださいます。福音では、求めなさい、そうすれば、与えられると約束してくださいます。

神はちっぽけな人間の願いにていねいに答えてくださるのだということ、この事実は、どんな時代にあってもかわらないということを、時代がまったく違う二つの出来事を並べながら示します。

さてここまで案内してもらうと、私たちは祈ることに自信がつくのではないかと思います。神様は、私たちの必死な願いを聞いた上で、その上で結果をくださる。また、私たちが願い求めるならば、与えてくださるのです。もうこれで、祈りもしないで生活がよくならないという言い訳は成り立たなくなることでしょう。

ところが、これで話は納まらないのが実情ではないかと思います。私たちの祈り、それも必死な祈りは、神様の心を打つのだと聞いても、何かを与えてもらった経験や実感がなくて、祈ったけれども何も変わらなかった、祈りは生活には役立たないと、生活の中から祈ることを切り捨ててしまっているのが現状ではないかと思います。

「求めなさい、そうすれば、与えられる」(ルカ11:9)。私はこのひと言だけを取り上げた、私自身の一冊の体験文集を作っても良いのではないかと思うくらいです。限られた経験ではありますが、私は願い求めたことで、確かに結果が与えられたという体験を少なくとも二つ紹介できます。

いつもこの話を取り上げている気がして、またかと言われるのではないかと心配なのですが、私は、重い病気を患った男性に病者の秘跡を授けに行って、その方が五年命を長らえたのをこの目で見ました。

五年長らえたと、大げさな言い方と思われるかも知れませんが、この患者に面会して秘跡を授ける前に、実は担当の医師と一悶着あったのです。担当の医師は冷静に、「私の許可がなければ面会できません。私の見たところ、患者はあと三ヶ月ですが、それでも神父さんが何かすることがあるんですか?」と、面会を許さないというような態度だったわけです。

私は当時26歳で、司祭になって間もなかったのですが、かなり頭に来まして、「悪いけど、お医者さんのできないことをしに来たんです。この方はカトリックで、私を必要としているんです」と言ったが早いか、担当医師の部屋のドアを蹴って出て行きました。格好良かったですよ。

かなり興奮したまま、私は病者の塗油の秘跡を授けて、そのまま帰ってきました。その後患者はどうなったか?その男性は、配偶者を最期まで看取り、天命を全うして、五年後に亡くなりました。三ヶ月しか持ちませんと言ったあのお医者さんに、ざまあみろと言いたい気分でしたが、神様が願いに答えて恵みを下さったことですので、私が威張ることではありません。ただ、この経験は私の中で、神様は必死な願いを聞き入れて、その上で結果をくださるのだという確信を育ててくれたのでした。

一つの確信は、考え方全体に影響を与えます。中田神父であれば、信仰の面で何かの指導をするとき、「求めなさい、そうすれば、与えられる」と励ますときに、揺るぎない力を与えてくださいます。また、洗礼の勉強をする人にイエス様の奇跡の話や、復活の話をするときに、神は確かにかなえてくださると話すのですが、話に力を与えるのはやはり自分の体験だと思うのです。

小さな話ですが、つい最近もかつての体験がものを言った場面がありました。今月7月は、新しい教会の子供に恵まれた月でしたが、その子供たちに祈りの大切さをどうやって伝えるか、頭を悩ませていました。「主の祈り」を綿密に話しているところでした。その詳しい意味を説明したとしても、本当にこの祈りは私にとって必要だ、唱える価値があるということをどうやって伝えればいいのだろうか。説明しながら迷っていたのです。

ですが幸いに、神様は私に願うものを与えてくださいました。子供たちにこの祈りを分かってもらいたい、主の祈りは知っているだけではなくて、私も確かに唱える必要があることを、どうか諭してあげてくださいという思いでした。

願いは叶えられました。一つの箇所を説明するときに、問題は解けたのです。「わたしたちの日ごとの糧を、今日お与えください」。福音書では少し違いがありますが、ここは祈りの言葉に合わせて考えましょう。「私たちが今日必要なことを、今日与えてください」と唱えるわけです。そうであれば、当然、この祈りをまずは朝一番に唱える必要があることに気が付いたのです。

「よい子の皆さん、今日必要はことは、布団に入ってから、寝るちょっと前にお願いしますか。今日必要なことは、今日が終わるちょっと前に願いますか?」そうです。今日必要なことは、今日が始まるその最初の時間に、願い求めるべきものです。つまり、主の祈りは何を置いてもまず、朝一番に祈る必要があるのです。

どうしても分かってもらいたい、どうしても祈りの必要性を伝えたい。その思いでもがいている私に、イエス様はちょっとしたヒントで、答えてくださったのです。何十回も、いや百回以上も、主の祈りの説明をしてきたことでしょう。その中で、ようやく「今日必要なことは、まず今日が始まる朝一番に願うべきではないか」ということを、確信を持って話せるようになったのです。願って、与えられたのです。

「求めなさい、そうすれば、与えられる」これは体験を通ってきた多くの人にとって、単なる気休めでは決してありません。与えられる中身は、命そのものから、その場にふさわしい言葉にいたるまで、幅は広いかも知れません。けれども、イエス様の言葉は十分に、現代の社会の中でも当てはまるのです。

願うものはすでに約束されているものだと、それくらいの強い思いで祈りに取り組んでみましょう。今日必要なことを、寝る前にそそくさと願うのではなく、朝一番に願いましょう。そして、この教会のすべての人が祈るとき、一人残らず願うとき、中にはあっと驚くものを頂ける人も出てくるのではないでしょうか。
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‥次の説教は‥‥
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(ルカ12:13-21)
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