主日の福音04/07/18
年間第16主日(ルカ10:38-42)
多くのことに思い悩んではいけません

今週の朗読箇所は、「マルタとマリア」という姉妹にまつわる話です。私はこの箇所読み、味わうときに、長い間一つの思いに縛られていたかもしれないなあと思いました。それは、「マルタとマリア、どちらがすぐれているか」「どちらがイエス様に気に入られるか」そういうことです。

聖書の朗読は、どうしても読み違えてはいけないこともあるのでしょうが、私たちがとりあえず読み、味わうに当たっては、いろんな感じ方を認めてあげて良いのではないかと思います。もしも、ある箇所をみんなで読んだとき、その感想を出してみましょうと呼びかけて、「この朗読は、次のような感想を持たなければおかしい」と決まっているとしたら、いろんな感想を述べ合うことはできなくなってしまいますし、きっと聖書を読むことは味気ないものになってしまうことでしょう。

そこで、今日のマルタとマリアに戻りますが、私がこれまでどこかでこだわっていた「二人の姉妹のうち、どちらがすぐれているか」「どちらが、イエス様の気に入られるか」という考えは、却って今日の物語の豊かさを狭めてしまうのではないか、そう思うようになりました。

つまり、私たちはもっとおおらかにと言いますか、もっと自由に、今日の朗読から感じたことを分け合っていいのではないか、今年中田神父はそういう結論にたどり着きました。その中で、伝統的な教会の理解のしかたや、教会の教えとして示されたことに反対するような意見や思いがあれば、それは指摘してあげる。聖書を読み、味わうことについて、司祭があいだに入るのはその程度でよろしいのではないでしょうか。

そのようなことを前置きにして、今日のマルタとマリアの物語の中で考えたことの一つは、マルタとマリア、どちらがすぐれているかを決めるような黙想の仕方は、きっとこの物語をだめにしてしまうだろうということです。同じく、どちらがイエス様に気に入られるかという考えをこの物語に探すことも、マルタとマリアの話に含まれる豊かさを失わせてしまうのだと思います。

なぜか。理由は考えればすぐ分かります。マルタとマリアのうち、どちらがすぐれているともしも答えが出たとしましょう。偉い学者先生が綿密に研究した結果、仮にマリアがすぐれているという答えが出たとします。すると、この物語は、それ以上は決してふくらまないわけです。

もう答えが出てしまっているのだから、それ以上時間をかけても思いめぐらしても、何も新しい発見は出ないことになります。仮にマリアの方がイエス様に気に入られたのですということを誰かが断言したとします。そうすると、もうそれ以上この物語から学ぶことはなくなってしまいます。はたして物語を残したルカは、そのようなことを期待していたのでしょうか。この物語に意味を与えているイエス様は、そのような詮索を望んでこの出来事に居合わせたのでしょうか。

私は、そんなはずはなかろう、と思っています。この物語は、女性が表にあまり現れない時代にあえて取り上げられたものの一つです。教会の日曜日の福音朗読の中でも、三年周期の朗読配分で必ず取り上げられ、三年目のC年に必ず朗読されています。もしも、「答えは決まっているのだ、それ以上の広がりも深まりもないのだ」というのであれば、繰り返されるこれらの朗読は、苦痛でしかないと思います。

私はこう考えたいと思います。聖書の朗読は、繰り返されていても、毎年何かを教えてくれる、繰り返し思いめぐらす中で、広がりが出てきて、深まっていくものだと。そういう考えにたつとき、私が従来頭のどこかでよぎっていた考え、自分を縛っていた考えからようやく解き放たれた、そんな安心を感じることができました。

何を思いついてもいいということではありませんが、今年はこのマルタとマリアの物語の中で、イエス様がマルタに考えさせようとした「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」という箇所を取り上げたいと思います。

人間が、同時に二つのことをできないのは体験からよく分かっていることです。特に、何かを決断するときは、「多くのことに思い悩み、心を乱して」しまっては、決断できなくなってしまいます。イエス様は、マルタに、「多くのことに思い悩み、心を乱している」と仰いました。決断とか、一つのことを成功させるためには、「思い悩み、心を乱す」ことはよろしくないのです。たとえばマリアは、「一つのことに没頭する」という意味では、ほかのものをすべて心の外に追いやって、イエス様の話に耳を傾けることを選びました。

私は今日、恥も外聞もかなぐり捨てて、結婚講座のポスターをミサのはじめからずっと背中に背負っていたわけですが、結婚は、「あれもこれも」を手放して、一つのことを選ぶ典型的な決断ではないかなあと思います。どの生き方もそうなのでしょうが、結婚を決めるときに、「多くのことに思い悩み、心を乱している」状態では、とても決断などできないのではないでしょうか。

そこで、私が決断をためらっている方々に、声を大にして言いたいことがあります。「思い悩み、心を乱している」結婚前の皆様方、くじ引きでもじゃんけんでもいいですから、いい話があればすぱっと結婚を決めてください。そして早めに、カトリックセンターの結婚講座に参加してください。講座は九月からですから、できれば今月と来月の二ヶ月で、決心してほしいと思います。

もちろん、時間が足りない人もいらっしゃるでしょう。そういう方は、決断したときで結構ですから、私のところに結婚のけいこの相談に来てください。私はこちらの小教区に来て、まだ外部からの結婚式を一組しただけで、小教区のどなたの結婚式もしておりません。早々に決断して、結婚式の申し込みに来てください。

結婚式が小教区の中で行われるということは、その小教区が中から新しくなるすばらしいチャンスです。子供に恵まれれば新しいいのちに喜びますし、結婚の誓いは参加するすべての人に神様と自分との絆を考えさせてくれます。多くの喜びを運んでくださいますので、「多くのことに思い悩み、心を乱している」人がいらっしゃれば、えいやっとクジを引くつもりで、決断していただければなあと思います。

これはついでのことですが、結婚式もときどきは行いませんと、中田神父も式の進め方を忘れてしまいます。中田神父のボランティアのためにも、是非是非お願いしたいと思います。

今日は、「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」というイエス様の言葉から、学びを探しました。確かにマルタは、心は千々に乱れていました。何か一つの決断をするときに、一つの務めを立派に果たすときに、私たちは心を散らすべきではありません。私は、イエス様から同じ注意を受けるような生活をしていないでしょうか。本当に必要なことのために、ほかの多くのことを横に置く。そんな、決断のための勇気を、今日のミサの中で願いたいと思います。

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