主日の福音04/04/25
年間第15主日(ルカ10:25-37)
この夏、中学生のために見て心動かして行動します

セミの羽。失礼。今日の朗読は皆さんあらすじをよく知っている「善いサマリア人」のたとえ話です。世の中には、このイエス様の話をそのまま生きてみたいという理想を掲げて、修道会の名前にそれをそのまま使っているところもあります。私たちも、助けを必要としている人がそこにいる時に、近寄ってお世話できるだろうか、一歩を踏み出せるだろうかと、一緒に考えてみましょう。

皆さんも経験しておられることなのですが、伊王島に住んでいると、ちょっと長崎に行こうと思えば、何時何分の船に乗るために、何分に家を出ると、そういう考えで玄関を出るのではないかと思います。当然、ターミナルであまり長く待たないように、ちょうどの時間に合わせて出かけます。そういう時に誰か用人とばったり会った時は、皆さんどうしていらっしゃるでしょうか。

それは中田神父に当てはめると、何か用事があって長崎に行くとか、土曜日であれば昼からは高島のミサのために2時18分の船に乗ろうと思って、2時に司祭館の玄関に鍵をかけるわけです。司祭館を回れ右してみると、そこには教会の前に観光客が立っている。そして、私の顔を、開けてくれんかなあ〜というような目で見るわけです。2時18分の船に乗りたくて、2時ちょうどに司祭館に鍵をかけて出ました。皆さんだったら、どうしますか?

私は、申し訳ないけれども、心の中で「ごめんね〜」と言いながらその場を立ち去ると思います。またこの観光客の方も、私が船に乗ろうと飛び出す時に限ってそこに立っているんです。どうしてでしょう?

まだ、「大事な用事」でその場をあとにする時はいいのですが、私もたまには釣り竿を手に握って司祭館を出る時があります。手には釣り竿と道具箱、頭はタオルをかぶった上から麦わら帽子。これで観光客とばったり会った日には、きっと観光客は気を悪くするだろうと思うわけです。「ここの神父は釣りに行くために私たちを教会に入れてくれなかった」そう思うに違いありません。

こういう経験を何度か繰り返すと、今日の物語に出てくる人たちのことが、他人事では済まされなくなります。旅先で半死半生の目にあったユダヤ人。彼は命だけは取られずに済みましたが、衣服を剥ぎ取られていましたので、誰かに体を覆ってもらい、介抱してもらわなければ、その場を動くことはできません。怪我が軽かったとしても、衣服を剥ぎ取られていては、どうやってその場を立ち去ることができるでしょうか。私はその意味でも、この人はどうしても誰かの憐れみを必要としていたと思うのです。

そこへ、中田神父と同じことをする人が通りかかりました。祭司として、礼拝を司り、掟の専門家として人々に教える、同じ役割の人間が、「ゴメンね、悪いけど関わっちゃいられないのよ」と思いながら道の反対側を通っていきます。務めも同じ、取った態度も同じ。私が聖書の中に現れているようで、辛くなります。

誰でも、こういう場合は同じなのかもしれません。つまり、人間は弱いということです。そんな弱い人間であることを素直に認めるなら、この通りがかりにユダヤ人を助けたというサマリア人は、並の人間ではないことになります。では聖なる人と称される人々のことだったのでしょうか。イエス様がたとえを話したのですから、まだこの時代に、聖人は一人もいませんでした。

では誰だったのでしょう。考えられるのはあとは一人しかいません。いつも人間を見ては憐れに思い、近寄ってお世話してくださるイエス様ご自身が映し出されているのではないでしょうか。じつはそう考えた方が、あとのつながりがしっくりいくのです。まとめは最後に話すことにして、もう少し話を進めましょう。

追いはぎに襲われたユダヤ人を助けたこのサマリア人は、ユダヤ人とは犬猿の仲でした。血縁関係の純粋さ、違う宗教が混じり込むことを決して許さない純粋さを誇りとしていたユダヤ人は、それらの面でいろんな要素が混じっていたサマリア人を嫌ったのでした。

もし、このサマリア人にイエス様ご自身を当てはめているとすれば、思い当たることがあります。イエス様も、ユダヤ人から理解されず、退けられました。また、イエス様は、このサマリア人を指して、「行って、あなたも同じようにしなさい」と仰います。イエス様がたとえを話した時代に、イエス様よりもすぐれた手本はなかったのですから、「この人のようにしなさい」と仰ったその人は、イエス様であった可能性は高いと思います。

そこで私たちも、「イエス様に倣う」ということを考えていくのですが、それだけでは何をどうすればよいのか分からなくなってしまいます。ここは一つ、サマリア人の姿に素直にヒントを探すことにしましょう。このサマリア人は、半死半生になったユダヤ人を「見て、憐れに思い、近寄って介抱した」のです。先に通りがかった人たちは、「見た」のですが、そこからイエス様に倣う次の一歩を踏み出さなかったのです。

そこで私自身の反省を、今日皆さんの前で形にしたいと思います。私は、教会見学をしたくて玄関に張り付いている人々を見ました。今までは、道の反対側を通って、教会の奥の土手の方に回って、トイレにつながる階段を下りて逃げ去っていたかもしれません。けれども、入れない人たちを見て、何とかしてあげたいなあ、といつも思っていたわけです。

そこで、次のように考えてみました。土曜日曜に教会を開放しよう。そのために手伝ってくださる人を募集して、少しでも早く実行したいと思っています。皆さんの寛大な協力があれば、私も、遅ればせながら、「見て、憐れに思い、近寄ってお世話する」ことができるかもしれません。

もう一つ、この夏の間に実行したいことがあります。それは、中学生のことです。私はここに来て二ヶ月、信者の中学生と話をしたことがありません。きっとその辺にいるはずです。中学生たちは、私を見たことがあるかもしれません。私はいろんな中学生を見ながら、心を痛めているわけです。教会に来てくれんかなあと。

教会の雰囲気も、ずいぶん変わってきたのではないでしょうか。今だったら、中学生も教会から何かを吸収できるのではないでしょうか。そういう時期に、私はちょうどここにいるのだと思います。見て、心を痛めているのですから、あとは私が行動を起こすときだと思います。

夏のうちに、中学生のために一つの計画を実行に移したいと思います。中学生の保護者の方と協力して、中学生の子供をもう一度見つめ、心を動かして、彼らのために力を合わせて行動を起こすことができるように、今日のミサの中でともに祈り合っていただきたいと思います。
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‥次の説教は‥‥
年間第16主日
(ルカ10:38-42)
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