主日の福音04/07/04
年間第14主日(ルカ10:1-12,17-20)
私をこの教会の働き手に使ってください

世の中、忙しくなったと言われますが、最近はそれに追い打ちをかけるように忙しい時代になってきました。「十年一昔」と言われていたのが、今では五年一昔、三年一昔になってきているのかも知れません。

また、私の勉強不足かも知れませんが、最近になって「ドッグイヤー」というような言葉さえも耳にするようになりました。雑誌や本の耳を折ることもドッグイヤーと言いますが、この場合は犬の年齢のことでして、犬の年を取る速さが、現代社会の物差しになってきているそうです。

犬の一歳が人間の十五歳で、それ以降は一年ごとに人間に当てはめると四歳ずつ年を取るのだそうです。ここから、現代社会は犬の年齢のような速さで進んでいると言われるようになったのだそうです。もしかしたら、ドッグイヤーという言葉さえ、今この瞬間には時代遅れなのかも知れませんが。

さて福音に入っていきたいのですが、イエス様はある程度まとまった人数の人々を宣教に送り出しました。そして、遣わすにあたって、「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」と仰いました。

「収穫の主に、働き手を願いなさい」。この言い方は、受け取りようによっては今から遣わされていく弟子たちにとって失礼と取られる可能性もありますが、もちろんイエス様はそういう意味では仰っていないわけです。そうではなく、収穫は神様の目からは約束されているようなものなのだけれども、働き手についてはいくらいても足りない、猫の手も借りたいくらいなのだと言いたいのだと思います。

私たちの教会は、今ちょうど今日の聖書の言葉にぴったり当てはまる時期にさしかかっているのかも知れません。たくさんのことを掘り起こして、実りを付けさせ、神様に差し出すときが来ているのだと思います。そして、そのための働き手が、猫の手も借りたいほど必要になっている。それが、今の私たちの教会なのではないでしょうか。

福音朗読では、イエス様が眺めているすべての町や村で、「収穫は多いが、働き手が少ない・猫の手も借りたいくらいだ」と考えておられます。イエス様の考えでは、収穫は神が与えてくださる実りなのですから、すでに約束されたようなものなのです。問題は、働き手が、猫の手も借りたいくらい必要なのです。

さて私たちの教会に当てはめてみましょう。私の見るところ、私たちの小教区も、一つ手を打てばひとつ結果がついてくる、今はそんな追い風の吹いている状態ではないかと思っています。もともと、すべての教会がイエス様のまなざしのもとにあって、イエス様ご自身が収穫を、実りを約束しておられる畑なのだと思います。ですから、私たち一人ひとりは、イエス様に使ってもらえる良き働き手になっているかを、今こそ考える必要があると思うのです。

いくつかの見方で自分を見直してみましょう。今の私は、どんな枠に当てはまっているでしょうか。三つほど示してみたいと思います。一つは、教会のために働いてみようとすら思わない、まったく関心を示さない人です。

例えば、あなたも参加している「今・この場」でミサが捧げられていますが、アーメンと口を開くことすら面倒くさい、関わりたくないと思っているとしたら、あなたはイエス様が必要としている働き手にまったく感心のない人と言わなければなりません。ミサという礼拝の中で、実りを捧げるために手を合わせることすら望まないのであれば、この教会に働き手が不足するのは当然です。ぜひそのような状態からすぐに抜け出して、手も合わせてみよう、アーメンと答えてみよう、聖歌も口を動かしてみようという気になって欲しいと思います。

次に、自分の都合を脇に置いてでも、教会の必要に応えてくださった方々がいらっしゃいます。今日の福音朗読では七十二人のことが言われていて、いちばんそば近くにいる十二人の弟子については語られていません。みずからの都合も横に置いて教会の必要に応えてくださった方々は、すでに多くの収穫のために尽くしてくれた十二人の弟子なのだと思います。感謝したいと思います。

最後に、働き手が必要なことは分かるけれども、私はその役には向かないから、器ではないからと、働き手が必要なことは分かっているけれども飛び込むまではいかない人です。おそらくどこの教会でも、ここでためらっている人が、いちばん多いのではないでしょうか。行こうか戻ろうか、ここでためらっている人がひと肌脱いでくださるなら、収穫は約束されたも同然なのではないでしょうか。

いや私は向かないからと思っている多くの人に、私はこう言いたいのです。協力したけれども、向いてなかったのですか、それとも、向いてないと言うばかりで、まだ飛び込んではいない人なのですか。ここが聞きたいのです。

やってみたけれども、期待に応えられなかった。もしそうであれば、私はねぎらってあげたいと思います。あなたの期待する結果は出なかったかも知れないけれども、神様はあなたが奉仕してくださったことを確かに受け取り、時間をずらしてとか、違う形でとか、少し形を変えて収穫に結びつけてくださっていると思います。思う結果に結びつかないのは、イエス様が違う形で使いたいからなのです。不安がらず、これからも手を貸してもらいたいです。

私は向いていないからと言って上手に辞退するあなた。この教会の収穫が形になるかどうかはあなたにかかっているのです。そうではないでしょうか。あれこれ言って辞退する人は、イエス様が祈りなさい願いなさいと何度も繰り返し仰ったことを肝に銘じて頂きたいのです。「収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」。

この祈りが、いったいいつすり替わったのでしょうか。私の心の中で、「収穫のために働き手を送ってくださるように」という言葉を、「私以外の働き手を」と巧妙にすり替えて祈ってきたのではないでしょうか。

「私以外のだれかをこの教会の働き手に送ってください」。何と回りくどい祈りでしょう。イエス様にナゾかけするような祈りではなくて、一人残らず、私を、この教会の働き手に送ってくださいとこれから祈ることにしましょう。あとはイエス様が、使い道は決めてくださいます。あなたはこの教会のために手を合わせなさい、あなたは、汗を流しなさい。私を使ってくださいと残らず祈る教会を目指して、きょうこのミサを続けて捧げていきましょう。
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‥次の説教は‥‥
年間第15主日
(ルカ10:25-37)
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