主日の福音04/06/27
年間第13主日(ルカ9:51-62)
鋤に手をかけて後ろを振り向くな

今日の朗読の中で、イエス様についていきたい人が、自分はこんな覚悟ですと決意のほどを表します。イエス様はそれを受けて、イエスの弟子は、こんな覚悟でいなさいと諭してくださいました。イエス様を信じることでついていこうとする私たちも、それぞれの覚悟を振り返る一週間といたしましょう。

イエス様が求める弟子の覚悟は、皆に同じ覚悟を求めているわけではないようです。朗読の中で、「わたしに従いなさい」と声をかけた人が、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と心配事を打ち明けると、「あなたの家族の心配は、あなた以外の身内に任せなさい」と仰います。

一方でイエス様に一緒について行く者には、相当に厳しい覚悟を求めますが、家族の心配事は、それほど厳しい覚悟を求めないほかの人々に任せなさいということがここには込められていると感じます。イエス様は、皆に同じ覚悟を求めているのではなく、必要に応じて、厳しい覚悟を求める人、そうでない人という違いをつけているのでしょう。

そこで、今日一緒に祭壇を囲み、礼拝を捧げている一人ひとりに、イエス様はどんな覚悟を求めておられるのか考えてみたいと思います。

福音朗読からは、三通りの覚悟が読みとれますので、お一人おひとり、いずれかをイエス様に自分の決意ですと、言い表すとよいと思います。三通りの決意は、イエス様の三通りの返事に現れています。

それぞれ紹介しておきますと、ある人には、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」という返事をしました。少し言い換えると、「安定した暮らしを期待せずに、信仰を保ってついてきてくれますか」という呼びかけと考えてみました。

安心して眠れる家がなければ、あなたは信仰を保ってくれないのですか。これこれの条件でなければ、信じ続けることはできませんとこぼすのですか。あなたが私の弟子でありたいなら、条件を付けないでください。それが私の求める弟子の覚悟ですと呼びかけます。

また別の人には、「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい」と仰います。日本にたくさん入ってきた宣教師の方々は、長男・長女・一人っ子という身分の方もたくさんいらっしゃったと思います。日本人の考え方であれば、長男が家のことを横に置くなんて考えられないかも知れません。ですが、私たち日本の国のために、イエス様を伝えるために、父母のお世話をほかの身内に託して、宣教に来てくださったわけです。

外国の宣教師だけではありません。長崎で奉仕しているけれども、出身は長崎から遠く離れたところという方もいらっしゃいます。きっとそのような方々は、家族に会うための時間も、ある時は横に置いて任せられた務めを果たしているのです。これも、たいへんな覚悟だと思います。イエス様を信じてついていくある人には、このような覚悟を求めることもあると思います。

そしてもう一つの覚悟をイエス様は示します。「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」。これは、何か責任ある務めを任せられたかたに求めている覚悟だと思います。畑を耕す「仕事」を始めたら、その仕事を最後まで全うしなさい、あなたは何かお願いされた役があるかも知れない、では、その務めを最後まで全うして、弟子であることを人々に証ししなさい。それがあなたに求める覚悟ですと仰っているのだと思います。

もしかしたら、この最後の呼びかけが、どんな人にでも当てはまる弟子の覚悟かも知れません。重い務め・そうでない務めの違いはあるかも知れませんが、一度始めたことを投げ出さずに全うしてください。その覚悟はできていますかと、一人ひとりに呼びかけていると思います。あなたは父親です。母親です。夫、妻です。あなたは独身です。それぞれ、最後まで手にかけたものを精一杯果たしてみてくださいと、私たちに呼びかけていると思います。

もちろん、すべての人が自分の務めを完成できるとは限りません。自分の希望通りに完成できない人もいるかも知れません。人間の力だけでは完成できるものではないと思います。そこには、恵みと支えが必要です。

精一杯果たして完成できなかったのであれば、それはその場から離れたこととは違うと思います。イエス様は、後ろを振り向くな、精一杯果たしてみなさいと招きました。私たちに求められているのは、そこまでだと思っています。

さて自分の生き方に手をかけたら後ろを振り向くなと言うのですが、現実はそうそう甘くないと思います。私も司祭になると覚悟したときに、いろんなことを承知の上で引き受けたつもりですが、それでもこの場から逃げたいと思うことがいろいろ生じてきます。ついこの前もそうでした。

こういうことです。金曜日に子どもたちの要理の勉強をしていますが、この前の要理の時間から新しい子どもが参加するようになりました。私は嬉しくなって、教会の子どもだから、お祈りから聞いてみようかな、何か知っているお祈りはある?と尋ねたところ、「祈りは知らないけど、歌は知ってるよ」と答えました。

私は、かつてカトリック保育園か幼稚園に通って、何か歌を習って、それを覚えていたんだな、えらいなあと思ったのです。「うん、どんな歌を知ってるの?」と聞きましたら、「ウルトラマンの歌は知ってるよ」という返事でした。私は笑うに笑えませんで、そっかあ、でもウルトラマンの歌は、教会の中では歌わないんだよと言うのが精一杯でした。私は正直、その場から逃げたかったです。司祭として、この現実から逃れたいと思いました。

ついでなのですが、「お父さんか、お母さんは信者?」と聞いたところ「生きとるよ」と返してきました。意味分かりましたか?「信者」という言葉さえもその子には馴染みがなくて、「死んだ?」と聞こえていたのです。「お父さんか、お母さんは死んだか?」と聞こえていたのです。何をどう話してあげればよいのか、目の前が真っ暗になりました。

ですが、イエス様は私たちに覚悟を求めます。「後ろを振り向くな」。いかに現実が目を背けたくなるようなものであっても、そこから逃げてはいけない。あなたは司祭としてついてくる覚悟をしたのだから、どんなことがあっても後ろ向きになってはいけないと、あらためて覚悟を求めてきたと感じました。

一人ひとり、自分の歩く道を見直してみましょう。今私がいる場所は、私が選び、生きている場所です。そこかが逃げ出したりせず、今置かれている場所で前を向いて歩いていきます。イエス様に自分の覚悟を言い表して欲しいと思います。これからの一週間が、新たな決意表明の一週間となることができるように、ミサの中で照らしを願っていきましょう。
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‥次の説教は‥‥
年間第14主日
(マルコ7:31-37)
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