主日の福音04/06/20
年間第12主日(ルカ9:18-24)
苦しみを経て救いを遂げたキリストにこだわる

すでに何人かの方はご存知かも知れませんが、馬込教会を撮影の舞台にして、月曜9時のドラマの撮影が行われました。私はその撮影の中で、結婚式を執り行う司祭として「ちょい役」で出させてもらっていますので、月九のドラマの最終回6月28日は、どうぞご覧下さい。

撮影を通して私が感じたことを一つ紹介しますと、ドラマの撮影に当たった方々にとって、大事なことはキリスト教の教会で結婚したという内容を撮影することだったのだろうということです。はっきり言えば、教会の中で、祭服を着た人に立ち会ってもらって、ドレスを着て式を挙げるのであれば、カトリックだろうが、プロテスタント教会であろうが、また神父さんが立ち会っていようが牧師さんが立ち会っていようが、その辺は問題ではないのだろうなあ、というようなことを感じたのでした。

私たちはどうかと言いますと、式を挙げたのがカトリック教会であるかプロテスタント教会であるかは大問題になると思いますし、立ち会ったのが神父さんであるか牧師さんであるかはなおさら重大問題だと思います。何を大事な問題と考えるかは、カトリック信者の場合と、そうでない方々とではかなり開きがあるのかも知れないなあ、と思った撮影でした。

結婚式一つとっても一般の人が考えている教会の結婚式と私たちが通ってきた結婚式とに大きな開きがある。ではその開きを近づけるためには何ができるのでしょうか。二つ考えられると思いますが、答えは一つだと思います。

二つと言ったのは、どんなやり方でも結婚すればそれでよいことにするか、カトリック教会が考えている結婚の進め方に、理解してくれる人をひとりずつでも増やしていくか、どちらかだと思います。当然、正しいのは、カトリック教会の考える結婚のあり方をひとりでも多くの人に理解してもらう方法です。

さて朗読された福音書の中でイエス様は、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねにりました。弟子たちは群衆の答えをそのまま伝えてみました。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」これは、一般の人が考えているイエス様の姿です。イエス様の期待している答えとはかけ離れています。あらためてイエス様は、弟子たちに聞きました。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えます。「神からのメシアです。」

この、ペトロの返事は大変すばらしいものでした。じゅうぶん分かって答えたのではなかったにせよ、イエス様にとっても満足のいく答えだったと思います。

ところが、イエス様は立派な答えを返したペトロに、「だれにも話さないように」と命じました。なぜだれにも話さないようにと命じたのか、にわかには分かりづらいかもしれませんが、続けてイエス様が求めたことを重ね合わせると、そのわけも見えてきます。

当然、ペトロは立派な答えを返したのですから、自信を持って「あなたは、神からのメシアです」と思い続けてついて行ってよいのですが、人間の力だけでは、信じていることを信じ続けるのは難しいのです。「神からのメシアです」と答えましたが、そう信じているイエス様は、ご自分の未来について「人の子は必ず多くの苦しみを受け、殺され、三日目に復活することになっている」と予告します。

一般の人間の目からは、神から遣わされた方が苦しんで殺されることなど、どうしても受け入れられません。ペトロは立派な答えを返しはしましたが、このままでは苦しむイエス様を信じ切れずに離れていってしまうことでしょう。メシアは必ず苦しみを通って復活するのです。正しい答えをひとりでも多くの人に伝えるために選ばれた十二人なのですから、彼らがまさかイエス様が苦しむなんて考えられないと、疑ってしまってはイエス様を正しく伝えるどころではなくなってしまいます。

弟子たちには、どうしても誤解してほしくない。言葉を並べて誤解を招くよりはむしろ、黙っていたほうが良いと考えて、あのように命じたのではないでしょうか。

ですが弟子たちも、ただ黙っていては苦しむことでしょう。そこで、イエス様は苦しいけれども良い道を示してくださいました。弟子たち一人ひとりが正しくイエス様を知るための道、「自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って従う」という道です。

のちに弟子たちは、イエス様を告げ知らせるたびに迫害を受けることになります。かずかずの奇跡を行ったイエス様。どんな人にも慰めとなり、励ましとなり、悔い改めに導く言葉を語ったイエス様。そのイエス様を語る弟子たちは、必ず迫害を受けたのでした。

ですが弟子たちは、迫害を自分の十字架として背負い、イエス様に従います。自分の十字架を背負って生き抜いて、イエス様と同じ目に遭って、初めてイエス様の本当の姿が理解できたのでした。メシアは必ず苦しみを通ることを。苦しみを通って救いを成し遂げる、この道以外に救いの道がなかったことを身をもって理解するのです。

さてイエス様の呼びかけは、当時の弟子たちだけにとどまるのでしょうか。そうではありません。イエス様は今も、「あなたは神からのメシアです」と信仰を言い表す人を捜し求めておられます。そして、多くの言葉をまき散らす人ではなくて、イエス様への信仰を、十字架を背負うことで生き抜く人を捜しておられると思います。

繰り返しますが、キリスト教と縁のない人にとって、牧師と神父の違いなんてどうでも良いことです。ですが、妻を持つことのできる牧師と、独身の誓いを立てている神父の違いがどうでも良いことと思われるのは神父にとってはちょっと困ります。

そうした事情を言葉を並べて説明することは可能でしょう。ですがイエス様は言葉を並べて説明するのではなくて、生涯独身を通して、それを自分の担うべき分として四十年なのか五十年なのか、はたまたそれ以上なのか分かりませんが、担っていくことで、ひとりでも多くの人がカトリックの神父とプロテスタントの牧師に違いがあることを知ってもらうように望んでおられるのではないかと思います。

キリスト教は愛の宗教だと分かっていれば、中身はどうでも良いではないか。どうでも良くありません。キリストが示された愛は、人間の救いのために苦しみ抜いた上の愛であったことを、ひとりでも多くの人に分かってもらえるために私たちは働きかけるべきです。

言葉をたくさん並べて説明するのではなく、毎日の苦しみを逃げないとか、自分でも何か十字架を背負うことで、ああキリスト教が説く愛とは、苦しみを通って救いにたどり着く愛なのかなと、ちょっとだけでも知らせていきたいと思います。
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‥次の説教は‥‥
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(ルカ9:51-62)
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