主日の福音04/06/13
キリストの主日(ルカ9:11b-17)
裂いて渡す。これがイエス様の模範
先週一週間は司祭の黙想会が開かれておりました。大阪の池長潤大司教様が説教師を務めて下さり、司祭に求められるいろいろな点を深く考える良い機会を頂きました。都合七回の説教があったのですが、その中で「御聖体」について話をされた時間が、私にとってはいちばんためになりました。
それと合わせるかのように、今日は「キリストの聖体」をお祝いしていますので、池長大司教様のお話から刺激を受けながら、自分なりに味わってみたことを皆さんと分け合いたいと思います。
大司教様の御聖体についての話の中で、特別な言葉を使ったわけでもないのにとても心に響いたところは、「私たちが捧げているミサの中で、実際に起こっている出来事をはっきり捉えましょう。目の前で繰り広げられているミサの中で、いけにえが捧げられています。キリストが十字架上で成し遂げられたことのすべてが、あの祭壇上で繰り返されています。」そう仰いました。
何も、特別新しいことを仰っているわけではないのですが、今までそう言われていながら気がつかなかったことに、今年ようやく気がついたのです。十字架上で成し遂げられたことのすべてが繰り返されていると仰いました。そうであれば、イエス様は今この祭壇上で、すべての人の罪を担ってくださり、自分がいけにえとなることですべての人の救いを成し遂げてくださるということです。
その中でも、回心した犯罪人は、心を入れ替えたとはいえ、悪名高い極悪人でした。当然死刑に処せられる罪人でさえ、心を入れ替えるなら、イエス様は十字架の上でその罪を赦し、担ってくださいます。その感動的な場面が、この祭壇上で繰り返されているのだと、私たちは考えるべきだというのです。十二年このかたミサを捧げてまいりましたが、果たしてその通りに考えていただろうか、改めて反省させられたのです。
そうはいっても、説教する大司教様の熱意は、初めのうちは私の心に届きませんでした。十字架上では、大罪人が回心して「あなたがみ国においでになるときには、私を思い出してください」と言いますが、果たして今私たちが捧げているミサの中で、そんな感動的な場面がどこにあるのだろうか?そう思えて仕方がないのです。
たとえば、大罪人は回心したわけですから、ミサの中で回心につながる場面をふり返ってみると、まずは「全能の神と、兄弟の皆さんに告白いたします。私は思い・ことば・行い・怠りによって、たびたび罪を犯しました・・・」というくだりがあるわけですが、その中で感動するような何かが起こっているだろうか。あまり、起こっているようには見えません。
私は正直に告白しなければなりませんが、この回心の祈りの間、私は皆さんの顔を見ながら、今日はあの人が来てるなあ、あの人は来てないなあ。あれ?あの人は誰だろう・・・」と、それほど心が動かされているとは言えませんでした。
「主よ、あわれみたまえ」。心の中に、本当に惨めな自分がいて、「罪人の私をあわれんでください!」と叫んでいれば、見えない心の中では感動的なイエス様の赦しが起こっているかもしれません。それは可能性があります。ただ、中田神父個人の感じ方としては、もっともっとあわれみの賛歌を上手に歌えるようになったらいいなあと、歌のことには注意を払っていますが、それほどまで感動する何かを感じることはありませんでした。それは、「神の子羊」のところでもそうです。われらをあわれみたまえ、われらに平安を与え給え。地の底からわき上がるような「あわれみ給え」であれば感動もするでしょうが、そこまで私たち一人ひとりの気持ちはたどり着いていないような気がします。
そう考えると、なまぬるい気持ちでミサを捧げているから、ミサの中で繰り返されている十字架のいけにえ、感動的な赦し、救いの約束などが今のミサからは味わえていないという答えにたどり着きます。私たちの心がけ次第なのか。私たちの熱心さが足りないから十分な喜びや感動にふれることができないのだろうと思っていました。
ところがよくよく考えてみると、十字架上の恵みはイエス様がご自分の思いだけで用意してくださった恵みですから、私たちの心がけが十分ではなくてもイエス様はそれを覆ってあまりある恵みで満たしてくださるのではないか、黙想会の祈りの時間に考えながらそう思うようになったのです。
そして、今私たちが捧げるミサの中で、はっきり見える形で与えられている恵みは、聖体の秘跡です。福音書の朗読箇所も、イエス様が五千人の人に十分に食べさせる奇跡が読まれ、今日の聖体の秘跡を先取りしている出来事として読むことができます。よくよく考えたら、この聖体の秘跡そのものが、十字架上の感動的な出来事を盛り込んでいるのではないか。そのことに気がついたのです。
教会の中で捧げているミサには、誰かが磔になったり、感動するようなドラマは見た目にはないのだけれども、じつは御聖体の秘跡の中には、それと変わらない感動が、盛り込まれているに違いない。私はそのことにようやく今年の黙想会を通して思い至ったわけです。
では聖体の秘跡のどこに、そのような感動する内容が含まれるというのでしょうか。二点示したいと思います。一つは、最後の晩餐の場面からです。イエス様はパンをとり、感謝を捧げ、「割って」弟子たちに与えて仰せになりました。パンを割いたということなのですが、イエス様はこのパンをご自分の体であると仰ったのですから、最後の晩餐で裂かれたパンは、ただのパンではなくて、イエス様ご自身の体を裂いて、弟子たちにお与えになったということではないでしょうか。
二つ目は、今日の福音朗読からです。イエス様は、弟子たちがようやく差し出した五つのパンと二匹の魚を、「裂いて」弟子たちに渡し、群衆に配らせました。五千人の人にパンを増やした奇跡が聖体の秘跡の前触れであったとしたら、パンを割いた、ということは、ご自分の体を裂いてお与えになった、ということになります。
これも、最後の晩餐と同じくご自分の体を引き裂いて人間の食べ物として与える姿にかさなります。最後の晩餐も、五千人にパンを与える奇跡も、形は違っていてもイエス様の十字架上での出来事を表しているのではないでしょうか。
以上まとめると、イエス様が、ご自分の体を引き裂いて与えてくださっている恵み。それが今日お祝いしている聖体の恵みということです。私たちはただ白い小さなパンをいただいていると、何となく思っていたかもしれません。今日から、もう一度目に見える御聖体を見つめ直してみましょう。私たちがいただくパンは、イエス様が引き裂いてくださったご自分の体です。体を引き裂くとは、とうぜん死を意味しているわけですから、私たちは十字架上で捧げられたイエス様の体をいただいているということではないでしょうか。
命がけと言ってもよいこの聖体の秘跡を受ける私たちは、イエス様に何とかして答える必要があると思います。私たちのために体を裂いて与えてくださったイエス様に、私たちはどのように答えればよいのでしょうか。この答えも、中田神父の思いも込めて、二つ示しておきたいと思います。
一つは、現実的な問題です。ミサの中でいけにえが捧げられ、聖体を一人ひとりはいただきます。供え物であるパンとぶどう酒は、皆さんが用意してくださる賽銭から準備しているものです。今のところ、厳密にはぶどう酒の代金といったものはこの一二ヶ月の賽銭から支出しているわけではありませんが、皆さんの献金が、パンとぶどう酒の供え物を準備し、ローソクや、祭壇上で用いている備品をまかなっていることは確かです。
そこから考えると、私たちは一回は、私の献金は、祭壇の供え物を本当にまかなう額になっているだろうか、一度は考えておいた方がよいのではないか、と思うのです。分かりやすく言えば、イエス様が裂いてくださったお体をいただくに足りる献金だろうか、ということを考えてもらえればなあ、と思っています。
さてもう一つは、生活上の問題です。イエス様は私たちにご自分の体を裂いて与えてくださいました。私たちは、そのことを今日はっきりと学びました。イエス様がそこまでしてご自分をお与えになるのは、私たちにも、自分をあるとき裂いて人々に与えなさいと、模範を示しておられるのではないでしょうか。
人のために骨折りたくない。あの人のためにはなおさら、時間も労力も使いたくない。そんな思いを捨てて、私は引き裂かれたイエス様の体で養われた者だから、私も、ある時には自分を引き裂いて与えましょう。心の思いが、引き裂かれるような思いを感じるときにも、私を与えましょう。そのような勇気と決断を促すために、イエス様はご自分を裂いて与えてくださるのだと思います。
今日、キリストの聖体をお祝いしました。イエス様の模範は、裂いてお渡しになるという模範でした。私たちも、いざというときは自分を裂く、痛い思いをして与えていく勇気を、今日のミサの中で願っていきたいと思います。
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‥次の説教は‥‥
年間第12主日
(ルカ9:18-24)
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