主日の福音04/06/06
三位一体の主日(ヨハネ16:12-15)
「完全に一つ」の瞬間が人間にもある

人間には、心と体がいちばん充実していると感じるひとときがあると思います。スポーツ選手、例えば野球の投手であれば、針の穴を通すほどの狙いをつけて投げることができる時期があるものです。

私の大好きな北別府選手は、現役時代、ボール半分、いやボールの三分の一ずらして投げることだってできたと思っています。ですから、私の応援している球団の黄金時代には、北別府が零点で抑えてくれるから、バントだろうが振り逃げだろうが、一点取れば試合に勝てたわけです。

こんな時期はそうそう長くは続きません。自分の体が、望むままに、思い通りに動いてくれるのはほんの一時期ではないでしょうか。足を上げているつもりですが上がりません。「たったこれだけ」の段差に躓いて、翌日は青あざ付けたりします。ちょっと前までは階段を片足ずつ登っていたのに、今は両足置いてから次の段を登っています。

これも人ごとではありませんで、つい最近私も痛い目に遭いました。司祭館の中で部屋から部屋へ移動するとき、さっと体をかわしているつもりでした。そのつもりだったのですが、さっと体をかわしたと思ったその時に、片方の腕を柱に思い切りぶつけたのです。ずしんと鈍い音がしまして、「ううう」とうめき声を上げました。今も右腕が痛くて、ぜんぜん上がらないのです。

人間は心と体から成り立っています。心はいつまでも若い状態を保っていられるのですが、体ははじめ充実していても、あとでは衰えるものです。心はいつまでも若いので、まだまだ大丈夫と思っていたら、ちょっとの段差に躓いたり、柱をよけることができなかったりするわけです。

心と体がつり合っているときはよいのですが、つり合わなくなってきたとき、私たちはそれを経験で補います。この経験が、いつまでも若い心と、衰えてきた体がうまくかみ合うように調節してくれるのです。だんだん足が上がらなくなってくれば、少しゆっくり歩くように自然となっていきます。それは経験がそうさせているのです。昔のようにしゅしゅしゅと歩けば、家に帰り着くまでには青あざだらけです。そうではなく、少し時間はかかるけれども、体を労りながら家に帰るなら、不必要なけがもしなくて済むわけです。

今日、三位一体の神秘を祝っているのですが、神秘だからといって雲の上の話でまったく理解できないというわけではありません。その一部分は私たちがすでに人生の中で学んできたことから知ることができます。

例えば、父と子と聖霊の三位一体の神様は、すべてがおできになる、全能の神です。私たち人間は全能ではないけれども、ある一瞬に限って言えば、心と体と経験が完全に充実して、思ったことが思い通りにできる時期があります。そのほんの少しの時間は、何でも思った通りにできると感じます。それが、神様の場合は始めから終わりまで、どんなときでも思うことを思うままにできるということです。

私たちは限られた一瞬しか思い通りにすることはできないけれども、神様はいつでも、何百年後であっても、思うことを何でもできる。ここは私たち人間とまったく違っているところです。

ほかにも、三位一体の神様はすべてをご存知です。これを全知と言います。私たちはほんの一瞬だけ、いくらでも頭に入る時期があります。一度見ただけで写真に写したようにものを覚える、そんなすばらしい時期が人生のほんの一瞬与えられていると思うのですが、神様はそれが永遠に続くということです。神様はすべてをご存知で、忘れることもないし、思い出せないということもない。そこが人間とはまったく違います。

神様のことを、人間が知り尽くすことは絶対にありません。ただし、いっさい理解できないように造られたわけでもないと思います。私たち人間をこよなく愛しておられる神様を私たちがまったく理解できないとしたら悲しいことですが、神様は私たちの限られた体験から、ご自分がどのような方であるかを知るきっかけは与えてくださったのだと思います。

神が全知全能であることを十分に知るためには、本当であれば私たちが全知全能に限りなく近いものでなければならないはずですが、それは私たちに与えられていません。ただし、ほんの一瞬だけ、私たちはあたかもすべてのことができそうな充実した時を与えてもらっています。「今だったらいくらでも頭にはいる」という、頭の柔らかい時期がほんの一瞬与えられています。

思うにそれは、私たちがおごり高ぶるためにそのようなすばらしいひとときが与えられているのではなくて、神様のことを知るきっかけとして、人間に与えられているのではないでしょうか。私たちにはそのようなすばらしい時間はほんの一瞬しか与えられていないけれども、神様の中ではそのすばらしい時間が永遠に続くのです。

この事実を知ることは同時に、私たちが神様の前にいつでも謙虚になるために、どうしても必要なことだと思います。私たちに、何でもできそうな時代が長く果てしなく続けば、神様を敬う気持ちは失せてしまうかも知れません。ほんの一瞬しかないからこそ、永遠に続く神様の偉大さが分かるし、謙虚さを保つことができるのではないでしょうか。

心と体と経験が完全に一つに合わさって、人生の中でいちばん物事がうまく進む。そんなひとときが皆さんの人生のどこかにあったことでしょう。それは、父と子と聖霊の、三位一体の神様を知るまたとない機会だったのです。私の中でいちばん物事がうまくいっているあの瞬間が、神様の中では、父と子と聖霊の中では、永遠に続いている。そのような切り口で、今年の三位一体の主日を祝い、「三位一体の神秘」を一緒に考えているわけです。

すべてを知ることはできなくても、神様はいくらかは分かるように照らして下さいました。父と子と聖霊という呼び名でありながら、お一人の神様であるお方を、私たちが今日心から賛美し、礼拝を捧げましょう。あわせて、私たちにとって縁遠い神様としてではなく、これからも私たちの暮らしに身近な神様でいて下さるように、ミサの中で心から願いたいと思います。
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‥次の説教は‥‥
キリストの聖体
(ルカ9:11b-17)
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