主日の福音04/05/30
聖霊降臨の主日(ヨハネ14:15-16,23b-26)
聖霊はあなたの「容器」をいっぱいに満たす

今日私たちは、聖霊降臨をお祝いしています。当時の弟子たちのように、いろいろの国の言葉を話すところまでは変わらないかも知れませんが、聖霊の恵みを受けて、「これから変わろうとする信者」に変えていただけるように、まずは恵みを願いたいと思います。

私が司祭になりたての頃、三つ先輩の神父様が子どもに聖霊降臨のことを根ほり葉ほり聞かれてまいったと苦笑いしている様子を見たことがあります。その先輩は教会学校の生徒から、次のようなことを聞かれたのだそうです。

「神父様、聖霊降臨の時、聖霊が炎の舌の形で現れて弟子たちに降りたとやろ?けどさ?何で弟子たちの頭は燃えてヤケドせんやったとね?」「なんでって、聖霊は普通の炎と違うとさ。普通の火と同じじゃなかと。分かった?」

「それじゃ分からん!じゃあ何で『炎』って書いてあるとね?神父様も『聖霊は燃えるような熱意を注いでくれました』って言うたやかね。やっぱ燃えるとやろ?何で頭は燃えんやったとね?ちゃんと答えてさ〜」

悩ましい質問だなあと思いました。私ならハナから降参して、「おう、燃えたとぞ。髪の毛の焦げて、ハゲになったとぞ。そいけど、焦げた臭いはくさかぞ〜」と言ったことでしょう。幸いに、こちらの坊ちゃん嬢ちゃんはそのようなへそ曲がりはいないようですので、安堵しております。

頭が燃えるかどうかは別として、その子どもが自分なりに聖霊を身近に捉えようとしたことは評価したいと思います。同じく私たちも、今日の聖霊降臨を身近なこととして捉える必要があると思います。私は、この聖霊降臨はおおいに私たち一人ひとりに関わってくると考えています。

私たちとどうつながるか。二つの点を示しておきましょう。一つは、集まっていた弟子たち皆に、聖霊が注がれたということです。一番弟子のペトロにだけ注がれたのではなく、すべての弟子に、聖霊は注がれたのです。

このことから、次のように私たちは考えるべきです。聖霊は、すべての弟子に注がれる。イエス様を神様と信じ、その救いを待ち望んでいるすべての人に、注がれるということです。私たちも、イエス様を神様と信じ、その救いを待ち望んでいるのですから、イエス様の弟子であり、当然私たちにも聖霊は注がれるのです。あの日の出来事は時代を超え、場所を越えて私たち一人ひとりにも関わってくることなのです。

そのいちばん良い例は堅信式です。聖霊の賜物を司教様が願ってくださって、私たち一人ひとりに聖霊が注がれます。堅信を受けるすべての人に、聖霊降臨の時と同じ聖霊が注がれるのです。そうであれば私たちは信仰の面で大胆に人に話し、信仰を守るために良くない風潮に毅然と立ち向かう力を注がれているのです。そして、いざとなればその力を発揮することだってできます。

信じるすべての人に聖霊が注がれる。これが第一点でした。もう一つの点は、「一同が一つになって集まっているときに注がれた」ということです。「一同が集まって」だけではありません。「一同が一つになって集まっていたとき」です。どう違うのでしょうか。

「一つになって集まっていた」。考えるにこれは、祈りながら聖霊を待ち望んでいたということではないでしょうか。聖霊を受けるために、ふさわしい準備をしながら、彼ら弟子たちはその日を待っていたのです。そして、良い準備ができていたからこそ、聖霊は十分に弟子たちの中で働き、大胆に神の業を語ったのです。

準備をして、その日を迎えるか否か。これが、今の私たちにも関わってくる二つ目の点です。準備をしなくても、聖霊降臨の日はやって来ます。あるいは、ほかの大切な日は準備しないでもやってきます。ですが、準備をしてその日を迎えるのとそうでないのとでは、明らかに結果は変わってくるのではないでしょうか。今日の説教でいちばん伝えたいことは、ここなのです。

恵みは平等に注がれます。堅信を受けるとき、準備をまじめにしてきた子にも、親が頭下げに来て、どうかうちの息子も堅信を受けさせて下さいと謝りに来た子どもでも、注がれる聖霊の恵みは変わりません。ものになるかどうかは、準備の善し悪しでまったく違ってくると考えています。つまり入れ物の準備次第で、恵みの働き方は違ってくるのです。

入れ物と言いました。もう少し品のある言葉に変えましょう。入れ物のことを「容器」と言います。容器の善し悪しが、同じだけ注がれる恵みの結果を左右するのです。あなたの中の容器が深ければ、広ければ、恵みは十分にあなたの中で働きます。この教会信徒という容器が深ければ、広ければ、聖霊はこの教会の中で十分に働きます。あなたの容器が浅ければ、また、この教会の容器が浅はかであれば、注がれた恵みのほとんどを失ってしまうのです。

「容器・容器・容器」です。「容器!」聞いとるか?聖霊は、信じるすべての人に同じ聖霊が注がれます。問題はそれを受け入れる私です。何かの準備をして、私たちは聖霊を待つべきです。

聖霊を受けた弟子たちは、大胆に行動するものとなりました。例えば私はこれこれの役を引き受けているから、いろんな困難あるけれども、教会を力強く前に進めるために大胆に働きたい。そう願って今日のミサにあずかるならば、その人は立派な容器を準備している人です。

家庭の中で、信仰を育てることを何か一つやってみたい。大胆に働きかける勇気をくださいと願うなら、その人は立派な容器を準備しているのです。「聖霊なのか、洗礼なのか、訳分からん」と、そんな風にぼおっと今日を迎え、今日を終えるならば、恵みはその人に蓄えられることはないでしょう。

一つ、家庭で信仰を育てることを何か一つと思っている人に、今私の頭にあることを紹介します。聖書を、食事のたびに一ページずつ読むというのはどうでしょうか。食前の祈りはすでに暗記して空で言える人が多いと思いますが、聖書を最初から最後まで読んだことのある人はなかなかいないと思います。

何が何でも一ページ読まなければ食べ物を口にしない。飲まない。そう決心して六月からスタートさせれば、そうですね・・・今年いっぱいには必ず読み終えると思います。一歩を踏み出す勇気がなかなか湧いてこないかも知れません。皆さんの励みのために、中田神父も六月からそうしますので、もしよかったらお付き合いください。

聖霊はすべての人に平等に注がれます。問題は容器です。容器が変わればあなたは変わる。容器が変われば馬込は変わるのです。今週一週間、私の器をあなたが期待する形に創り上げてくださいと、聖霊に力強く願うことに致しましょう。
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‥次の説教は‥‥
三位一体の主日
(ヨハネ16:12-15)
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