主日の福音04/05/23
主の昇天(ルカ24:46-53)
信仰の面で大喜びしたことありますか

今日私たちは主の昇天をお祝いしています。また、この時期に日本カトリック女性団体連盟の全国大会が開かれて、長崎地区の各教会に分散してミサに参加しています。私たちの馬込教会にも、22名の方がおいでくださいました。感謝申し上げます。今日特別に礼拝に参加してくださった方々も含め、皆さんと一緒に、御昇天の朗読箇所から今週一週間の糧を得たいと思います。

私が今年の御昇天に当たって考えてみたい部分は、朗読の終わりの部分、弟子たちがイエスを伏し拝んだ後、「大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」という箇所です。特に目を引いたのは、弟子たちが大喜びしたという様子です。これは、中田神父には不思議に思えます。

もう一度、弟子たちの様子をさかのぼってみましょう。彼らはイエス様に連れられてベタニアの辺りまで行きました。イエス様は手を上げて彼らを祝福します。祝福しながら、天に上げられたとあります。一見して、私はこの一連の出来事に、大喜びできるだけのものを見つけることができなかったのです。

イエス様に祝福してもらったことが、あまりに嬉しかったのでしょうか。イエス様はあるとき子どもを抱きかかえて祝福なさいました。イエス様が誰かを祝福することは、そんなに珍しいことではなかったはずです。大喜びするほどのことでもないような気がします。

あるいは、「祝福しながら天に上げられた」というのですが、その様子を見たことが、飛び上がるほど嬉しかったのでしょうか。天に上げられたということは、イエス様は自分たちのもとを離れていった、ある意味、遠いところへ行ってしまったということです。

ルカが、福音書の続きとして書き残した使徒言行録(今日、第一朗読で読まれました)によれば、彼らは天に上げられたイエスをぽかんと眺めていたので、神の使いが「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか」と、我に返りなさいと促されたことになっています。

彼らが突っ立っていたのは、嬉しさのあまりではなくて、戸惑いのためではなかったでしょうか。そこからしても、少なくとも私は、今日の朗読箇所をパッと読み返した時点で、「大喜び」する理由が分からないのです。

皆さんは普段の生活で、どんなときに大喜びするのでしょうか。または、どんなときに大喜びする人を見たことがあるのでしょうか。日本全国の人が見ている場所で、日本人みんなが喜ぶようなことが起これば、大喜びするかも知れません。ちょっと前に水泳の北島選手が、100メートルと200メートルの平泳ぎで世界記録を打ち立てました。おそらく皆さんもその様子は見守って、「よーし、よくやった」と大喜びしたのではないでしょうか。

あるいは、これはちょっと古い話ですが、長野オリンピックのジャンプ競技の団体戦で日本が金メダルを獲ったときは、本当に感動しました。原田選手が、「舟木がよくやってくれたよ。舟木が・・・」と声を震わせてインタビューに答えた場面は、多くの人が心を打たれたことでしょう。

こういう場面は、その場に居合わせなくても、テレビを通してでも感動するし、大喜びするのではないでしょうか。長野オリンピックの話のついでですが、その当時私は長崎市内のとある教会にいたのですが、ジャンプ競技応援のためにテレビにかじりついていたシスターが、「神父様見てよ。原田が泣いているわ。はらだ〜。良かったわねぇ〜」と言って、泣きながらテレビにハンカチを振っていたのを思い出しました。

普段の生活で、大喜びと言ったら、これくらいの感激がないと大喜びと言わないと思うのです。生活と信仰が、かけ離れたものでないとすれば、弟子たちが「大喜びした」というのは、私たちの生活で起こるような大喜びに近い感激・感動があってもよいのではないでしょうか。

そこでもう一度福音朗読に立ち返ってみたいのですが、弟子たちは確かに大喜びしたのです。飛び上がるほどの喜びを得て、神殿で絶えず神をほめたたえるようになったのです。どこかに、大喜びしたきっかけがあるはずですが、私にはこれだと言える何かを見つけることができません。一体、どこにそのきっかけがあったのでしょうか。

そう思ってよくよく読み返してみると、これかな?という箇所が見つかりました。「エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる」という箇所です。約束の聖霊が与えられ、力に覆われて、弟子たちはイエス様のお供をする者から、人々の前に出て、証をする者となる。イエス様は自分たちを証人に値するものと認めてくださった。だから、「あとはよろしく」と、父のもとにお帰りになったのです。

天に上げられる様子を見ながら、弟子たちは我に返ったのかも知れません。「そうか。私たちは証を立てるに値するものとされたのだ。これは喜ぶべきではないか」。じわじわと喜びがこみ上げてきて、嬉しくて嬉しくて、神殿で神を賛美したのではないでしょうか。

ちなみに私は、「あなたの出番だよ」と背中を押してもらったと感じる出来事がたくさんありました。長く教会との関わりを曖昧にしてきた方が、この機会にと、教会上の手続きをちゃんと申し出てくださって、今は平安のうちに暮らしているというご夫婦に何組も出会いました。

その方々は、私以前にも何人もの司祭と出会ってきたのですが、たまたま、私に出番があったのだと思いますが、中田神父とのつきあいの中で、教会の手続きがうまくいったケースがあるわけです。「私でも、神様は使ってくださる」。神様が信頼して使ってくれた。私も証をする者の端くれに加えてもらえた。その実感は、やった!と言えるほどの喜びを確かに届けてくれました。

イエス様が天に昇り、聖霊を注いで、私たちの出番をはっきり作ってくださる。一人ひとり、そのチャンスはすぐそこまで来ていると思います。こんな大役できっこないと思っていたけれども、なぜか私を使ってくださった。一人ではとてもできそうにないあのこと・このことを教会の中で果たすことができた。信仰生活の中で心の底から喜べる体験を、イエス様は一人ひとりに与えようと、ご自分は天に昇って、私たちに出番を回しておられるのではないでしょうか。

弟子たちは、自分たちの出番が来たのだと感じて、喜びがこみ上げてきました。私たちも、信仰を得てからの人生に出番が来たのだと喜ぶところまでたどり着きたいものです。ではよろしくと、私に出番を作ってくださったイエス様が、役割を全うするために必要な恵みも、同時に満たしてくださるように、この一週間聖霊の恵みを願いましょう。
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‥次の説教は‥‥
聖霊降臨の主日
(ヨハネ14:15-16,23b-26)
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