主日の福音04/05/02
復活節第4主日(ヨハネ10:27-30)
羊と羊飼いの信頼に基づく絆

拍子抜けするほど短い朗読でしたが、三つ取り上げてみたいと思います。取り上げる三つのことから、たとえ話の中の羊と羊飼いの関係−−それは私たちに当てはめると主任司祭と信徒の関係ということですが−−について、今週は考えてみたいと思います。

短い中に、考えさせられる言葉をイエス様は仰いました。一つ目は、「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける」。イエス様がお考えになった通りに皆さんに解き明かすことは無理かも知れませんが、私はこう考えてみました。「羊は、羊飼いの声を聞き分けている」ということです。

そのまんまじゃないか、と思うかも知れませんが、主任司祭と信徒に当てはめてもう一回聞いてみましょう。「信者は、主任神父の声をちゃんと聞き分けている」ということです。ご無理ごもっとも、神様の次に偉い方が仰ることですから、白は白、黒も白ですと、何でも言いなりになっているのではなくて、信者はちゃんと声を聞き分けている、ということです。

ちゃんと聞き分けている信徒であれば、偉いと思います。「神父様の言う通りに黒も白と言っておかなければ、大変なことになる」と、自分を偽るような態度をとり続けるなら、それは偉い信徒とは言えないと思います。イエス様はご自分を信じる人々を羊に例えて、その羊たちを信頼しています。「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける」。中田神父も、私たちの小教区の信徒の皆さんがきっとそうであるに違いないと、信頼して付き合っていきたいと思います。

次に、「彼らはわたしに従う」と仰います。ここで言う「従う」とは、首に縄を付けられた牛が引っ張られていくような姿を言っているのではありません。首に縄を付けて引っ張るのであれば、嫌でもついて行きます。人間が従うときには、小さな意見の違いはあっても、大筋では納得できるから、従ってほしいと言っている人の筋が通っているから、理解して従うわけです。大筋でも納得していない、ぜんぜん承知できないままついて行くのは、従うとは言いません。

イエス様はここでも、「わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う」と言い切っています。これも、イエス様と羊との深い信頼関係の上に成り立っていることです。イエス様は羊一匹一匹をよくご存知でおられ、羊はイエス様が納得してついていける方であることを知って、その上で従っています。

主任司祭と信者の関係も、そうでありたいと思います。私も、皆さんお一人おひとりのことをいくらかでも分かりたいし、皆さんは私に対して、多少の食い違いはあったにしても、大筋では納得できるからついて行くと、そういうお付き合いができたらと願っています。

三つ目に取り上げたい言葉は、「わたしは彼らに永遠の命を与える」という言葉です。イエス様がこの世におられるあいだに語ったことは、徹底して神の国、また父なる神についてでした。

ある時は「あなたの罪は赦された」と仰って罪を赦し、ある時は「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マルコ2:17)と仰って社会からはじかれている人を呼びました。人間のためなら、どんな骨折りもします、永遠の命を与えるために、わたしは命すら十字架の上で与えます。それが、イエス様の仰る「わたしは彼らに永遠の命を与える」ということだったのではないでしょうか。

主任司祭も、任せられた小教区の信徒に対して、同じ気持ちを持っているはずです。私は、永遠の命を、信徒に与える。中田神父は、永遠の命を、信徒に与えるためにここにいる。世間のことを教えるために、私がここにいるのではありません。あなたの生活で、永遠の命につながっていくことは何かを、教え示し、いっしょに実行していくために、私はここにいるのだと思います。世間のことは、私より皆さんのほうが数段先輩なのですから。

今日の福音は、イエス様という羊飼いと、イエス様が信頼している羊の関係についてでした。それはまた、小教区の中での主任司祭と信徒の関係を、もう一度考えるとてもよいたとえ話になりました。

私は、教会の羊である皆さんを信頼したいと思います。皆さんも、主任神父が本筋では何を言いたいのかを聞き分けて、納得ずくでついてきて欲しいと思います。枝葉の部分で、多生の食い違いはあるかも知れませんが、本筋で納得できるところまで、いっしょに考え、話をまとめながら、これからも生きた小教区作りに邁進していきましょう。
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‥次の説教は‥‥
復活節第5主日
(ヨハネ13:31-33a,34-35)
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