主日の福音04/04/25
復活節第3主日(ヨハネ21:1-14)
「どこに何があるか」は生活の根本です
皆さま初めまして。金曜日に漁船三隻連ねて大島というところから船でこちらの小教区の主任司祭としてやって来ました。名前は中田輝次神父と言います。荷物がいっぱいあって、香焼から渡すといくらぐらいかかりますかと運送会社に頼んだら、ざっと20万ですねと言われて、それはもったいないと思いまして、信者の漁船に乗せてもらうことにしました。一日分の日当を払ってでもおつりが来ます。もしかしたらそのおつりで電子レンジが買えるかも知れません。そう思って、船で来ることにしました。
この二三日、座っていても落ち着かない日々です。食事も、これからは自炊をすることになりましたし、いろんなことでこれまで当てにできたことができなくなって、てんやわんやの毎日です。やれ醤油はどこにある、茶わんがない、しゃもじはどこだと、おそらく一日見ていても飽きないくらいバタバタしております。
ちょっとしたものが、どこにあるのか分かりません。文房具にしても、筆箱がどこにいったのかすら分からなくなっているんです。電話がかかってきまして、名前を控えますからちょっと待ってくださいと言ったのはいいのですが、すぐ手の届くところに筆記用具がなかったものですから、「まずいなあ」とは思いつつも、「はい、名前をお願いします」と言って、書いてるふりだけしてその場を取り繕った電話もありました。ですから名前が思い出せなくて、この二三日の電話のなかには失礼している電話もあると思います。
どこに何があるか。これは生活を滞りなく回していくためにどうしても欠かせないと思います。荷物を届けに来た人から「印鑑お願いします」と言われても、「うーん、印鑑がどこにあるか分からないので、中に入って探してください」と言っていたのでは間に合わないわけです。あるいは、支払いを済ませなければならないときに、「お金のある場所をちょっと探してもらえませんか」と言えば、それはもう家財道具も持っていっていいですよと言っているようなものです。どこに何があるかを本人がよく知っていて初めて、その人の生活はうまく回転していくのだと思います。
さて、皆さんお一人おひとりのことを振り返ってみましょう。ご自身の生活の中で、「どこに何があるか」きちんと押さえておられるでしょうか。どこに行けば必要なものが手にはいるか、用件を済ませることができるか、全部についてきちんと把握できているでしょうか。
そうは言いましても、私は今まで話したことを繰り返し皆さんにもお尋ねするつもりではありません。ただ、信仰の面で「どこに何があるか」をちゃんと把握できていますか?と聞きたいのです。罪の思いに心が苦しんでいるとき、どこに行けば罪の重荷から解放されるか、ちゃんとご存知でしょうか。病気で入院したり家から出ることもできなくなったりしたとき、どこに信仰の慰めといやしをお願いすればよいか、自分の親がそうなっているときに、息子として、娘として、どのようなお世話を仲立ちしてあげればよいのか、皆さんちゃんと分かっておられるでしょうか。私は皆さんの家庭で醤油がどこにあろうが関係のないことですが、信仰の面でどんなときどうすればよいかを分かっておられるかどうかは、やはり気になりますし、お世話してあげたいなあと思っています。
本日の福音の中で、ペトロは家の中に潜んでばかりはいられなくなって、「漁に行く」と決めて出かけました。漁に行く、それは簡単に言えば食べ物を手に入れに行くということです。もともとは漁師であった自分たちが食べていくためにどこに行けばよいか。それは舟を漕いで湖に出かけるしかなかったわけです。食べるために何をすればよいか、ペトロとその仲間たちは「湖に行けばよい」という答えにたどり着きました。
さて湖に行って網をしかけてみたのですが、運悪く魚は一匹もかかりませんでした。湖に行けば魚が捕れて、食べていけると思ったのに、ここに行けばこういう答えにたどり着くと思ったのに、そうならなかったのです。
この体験は、漁師にとってはかなりショックな出来事です。漁師として、どこに何があるかを分かっているつもりだったのですが、空振りに終わったのですから、当然しょんぼりしていたと思います。いちばん落ち込んでいるときに、イエス様は声をかけました。「何か、食べ物があるか」。
私は、イエス様のこの言葉を、次のように考えるわけです。「あなたたちは漁師だ。どこに行けば食べていけるか、ちゃんと分かっているか?どこに何があるか分かっているか。」弟子たちはそこまで考えなかったかも知れませんが、何も捕れなかったのですから、「魚はありません」としか答えようがありません。人から聞かれて漁がなかったことを打ち明ける。どれほどつらいことでしょうか。
イエス様は「舟の右に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」と仰います。イエス様は漁師ではなかったのに、どこに何があるか、すべてご存知だったのです。漁師の「どこに何があるか」だけでなく、すべての人の「どこに何があるか」「あなたがどうすれば救われるか、心安らかに暮らすことができるか」をすべてご存知だったのです。
今日の説教の結論は、次のようにまとめることができます。あなたが知りたい「どこに何があるか」は、実はイエス様にたずねてご覧なさい、ということです。悩み苦しんでどうすればよいか分からない。私のことを誰も分かってくれない。これから先、どうやって生きていけばよいのか。いろんな知りたいことは、本当の本当は、神様だけがご存知なのではないでしょうか。
さて、神様だけが本当に知りたいことの答えを知っているとすれば、私たちはどうやって神様からの答え・照らし・導きを頂けばよいのでしょうか。私は、まずは教会に行ってご覧なさいと勧めたいと思います。中田神父の所に来るという意味ではなくて、教会に座って、神様のことにだけ心を向けてみたら、きっとよい答えをいただけるのではないかと思います。
また、家庭での悩みにくじけそうになるときに、まことの導き手でおられるイエス様に祈ってみたらどうでしょうか。祈りのある家庭は、どこに何があるかをいつも教えてもらえる家庭だと思います。祈りのない家庭、神様に照らしを求めない家庭は、まことの導き手を持たず、恐る恐る歩くようなものです。一体どちらがよりすばらしいでしょうか。
どこに何があるか。いつも神様に尋ねましょう。本当に見つからないもの、答えが分からないこと。それは神様によく相談しましょう。どうぞもっともっと教会に近づいて、家庭の中に祈りを持ち込んで、これからの暮らしを信仰の面でも実りあるものにしていくことにしましょう。
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‥次の説教は‥‥
復活節第4主日
(ヨハネ10:27-30)
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