主日の福音04/04/18
神のいつくしみの主日(ヨハネ20:19-31)
神のいつくしみは絶えることがない

本来は、復活節第2主日、福音朗読は復活したイエス様が八日の後に現れて、「私は信じない」と言ったトマスに「見ないのに信じる人は幸いである」と諭される場面です。なかなか信じようとしないトマスにいつくしみを示すイエス様のことを説教する日曜日ですが、六年間で一回だけ、私事の話をして皆さんとの最後の日曜日のミサをお捧げしたいと思います。

12分かそこらの説教ですから、どうしても話しておきたいこと、つねづね気にかけていたことを最初に話したいと思います。それは、「チャンスを逃さないでください」ということです。めったに回ってこない、今この時期だからできる、そういうチャンスを、せっかくだから逃さないでくださいと、言い残したいと思います。

大切な機会を捉えた思い出と、逃してしまった思い出、それぞれ話してみたいと思います。一つは、教会新聞「せいトマス」を発行できた、ということです。おおまかなお知らせと、その月に起こったちょっとした行事は、だいたい「せいトマス」で知ることができたのではないかなあ、と思っております。

教会に日曜日にミサに来て、お一人おひとりとゆっくり話をすることができればもっといいのになあ、と思ってはいても、なかなかそうはいかず、かといって地区集会の中でも、だまってお話を聞く方に回ってしまう人もいらっしゃったと思います。お一人おひとりに、何とか主任司祭の考えていることを伝える手だてとして、ずっと続けることができたことは大きな収穫でした。

あともう一つ挙げるなら、2000年に開いた「聖書通読リレー」です。長崎教区の活動として今行われている「聖書マラソン」は、どうしても自分で読み続けるという根気が必要ですが、根気のない人でも、みんなといっしょに並んで座り、専門の方が吹き込んだ聖書の朗読を聞いて、とにかくすべての聖書に耳を傾けてみましょうと考えたのが、2000年に実行した「聖書通読リレー」でした。

今でも忘れませんが、多くの方の参加を頂いて、なかには一度も欠かさずに出席して、天地創造の物語から黙示録の「見よ、わたしは万物を新しくする」(Rev.22:5)という荘厳な言葉まで、すべてに立ち会ってくださった方もおられました。わたしはこの時こそ、「2000年のこのチャンスを逃してはいけない。わたしたちの小教区で、それはどこかの大きな世帯を抱える小教区ではなく、今あるだけの信徒でできるものはないか」そう考えて神様に照らしを頂いた答えでした。

技術の進歩や、情報が行き渡るようになったことで、信仰の世界でも「やろうと思えば、どんな環境に暮らしていても、カトリック教会がここにあるよと印象づける活動はできる」と、この六年間で確信を持ちました。聖書通読リレーがそうでしたし、個人的におこなっている「説教のメールマガジン」も、太田尾小教区で話している説教を、北は北海道から南は海外の台湾まで、皆さんが今聞いている説教を、いっしょに聞いて下さっているわけです。都会にいても、郡部にいても、ここまでできるんだよという、大きな証しを、小教区全体で表すことができた意味深い期間だったと思います。

チャンスを逃し、できなかったことがあります。いちばん悔やんでいることは、教会に関心を持ってもらうことで終わらずに、直接、信仰を求めている人を招いて、もっともっとたくさんの方に信仰へと導くことができなかったことです。2001年のことだったと思いますが、当時韓国のものすごい宣教への熱意に心を打たれて、私たちもやればきっとできるはずと、声は上げたのですが肝心の行動は尻すぼみになってしまいました。

このことに関係のある話なのですが、今年の復活祭に、一つの教会で83人も洗礼を受けた教会があることを知り、おおいに刺激されました。東京教区の「高円寺教会」という教会なのですが、復活徹夜祭のミサで洗礼を受けた83名の方々がずらりと写真に並んだ様子が全国版のカトリック新聞に掲載されました。

カトリックの良いところを伝える。それをもっと突き詰めれば、カトリックがよいのであれば、洗礼を勧めてあげましょう。そこまで結果に結びつけた「高円寺教会」の努力には、私は圧倒されました。先頭に立って動かれた主任司祭は「腰が引けちゃいけない。ミサを本気で信じて、人々を洗礼に招きましょう」と呼びかけ、何と一年で83人の洗礼志願者を得て、今年の復活徹夜祭に漕ぎ着けたのだそうです。このニュースを聞けば、どんな教会でも、もっと社会に働きかけることはできるんだと実感しますし、私は一回の洗礼式で何十人はおろか、4人とか5人の洗礼式もこちらの小教区では経験しなかったなあと思い、責任を感じています。

もっとほかにも、私の落ち度で教会に背を向けてしまった方もいらっしゃると思いますし、物事の進め方に反発を感じた方もいらっしゃっただろうと思います。過ちは心からお詫びします。お許しください。司祭として背負うべき責任は、これからも生涯背負っていくつもりです。

私に声をかけてくださった方の中で、「今この神父様がいるうちに、何とかしてもらった方がいいよ」と勧められて今に至っていますと仰ってくださった方々には、おおいに慰められました。あー、私でもお役に立てたなあ。私のようなタイプでかえって良かったという人もいらっしゃるのだなあと、かえって私のほうが感謝したいと思います。ありがとうございました。

いずれにしても、それぞれが「チャンスを掴むか・逃すか」ということなのだと思っています。日曜日以外にはミサに来たことのなかった方が、ある時から平日のミサにも参加するようになったとか、子どもを通して洗礼を受けると決心された方もいらっしゃいます。信仰生活でのいろんな喜びを皆さんから頂きました。どこかに神様と皆さんを出会わせるチャンスがあって、そのチャンスを司祭は逃さずに取りなしていく。何度もそういうチャンスを頂いたのでした。

たったの数行で申し訳ないのですが、今日の福音でトマスは、頑なな態度を改めて、心からイエス様を信じる者になりました。イエス様の最初の出現に立ち会えなかったことを、逆にまたとないチャンスに変えて、聖書の中に決して忘れられることのない物語として書き残されました。神様はどんな方にもチャンスを与えてくださるのですから、それは逃さないようにしたいと思いますし、逃さないためには、「きっと私にもチャンスが回ってくる」と信じ続けることが大切だと思います。チャンスを信じて待つことや、この場面は私に与えられたまたとない機会ではないだろうかと、積極的に受け止めることが、神様からのチャンスを引き寄せるのではないでしょうか。

普段祈りをしないとか、日曜日すら教会に行かないという方も、何かのチャンス・きっかけを逃しているのではないかなあ、と思います。どうかこれからの信仰生活、神様からのチャンスを引き寄せて、ますます生活に神様がとどまる日々を送ってください。私も新しい任地で、きっとチャンスが与えられると信じて、どんな場面で送り出されてもヒットを打てるように、心の準備をしておきたいと思います。
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‥次の説教は‥‥
復活節第3主日
(ヨハネ21:1-14)
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