主日の福音04/04/11
復活徹夜祭(ルカ24:1-12)
なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか
主の復活、おめでとうございます。今日お祝いしている復活の出来事は、イエス様がかつて仰った「わたしは命を、再び受けるために、捨てる。・・わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる」(ヨハネ10:17-18参照)という言葉を証明する出来事です。
そして、イエス様がご自分の身をもって証明された出来事を考えてもらうきっかけとなる言葉が、今日の朗読の中に出てきます。それは、み使いが言った言葉「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」という言葉です。
婦人たちは、香料を準備して墓へ行ったのでした。お墓は、どう考えても生き物の気配のしない場所、死が支配している場所のはずです。婦人たちがそこへ行くのは、イエス様は十字架の上でなくなられて埋葬されたのだから、今は「死の力」「暗闇の力」に支配されて、墓に閉じこめられている。そう考えたからです。
ところが、み使いは婦人たちの考えをすっかり変えてしまう言葉を告げたのです。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか」。それは、イエス様がたとえ十字架の上でいのちをささげて埋葬されたとしても、あの方は「死の力」に支配されたりはしない、「死の力」が勝ち誇るのを許されないのだ。そうみ使いは言いたかったのだと考えます。
私たちは、イエス様が生前語られた言葉、おこなった業を辿ることができるわけですから、最初に触れた「わたしは命を、再び受けるために、捨てる」という言葉を思い出すと、分かりやすいと思います。イエス様は、十字架の上で命を捧げたとき、命を無理矢理奪われたのではなくて、ご自分で命を手放したのです。そして、前もって言われた通り、復活によって命を再びお受けになったのです。
「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか」。再び命をお受けになったイエス様を、「死の力」が支配している墓に捜すべきではありません。それはたとえて言えば、元気な友達を病院で探し回るとか、太田尾でなくした品物を間瀬で一生懸命捜そうとしているようなものです。主は生きておられるのですから、「死の力」が勝ち誇る場所にイエス様を捜すのではなく、もっとほかの場所を探す必要がある。婦人たちはそこまで理解したのだと思います。
けれども、婦人たちもあまり自信がありません、自分たちが希望を失い、生きる気力をなくしているのですから、どうやって復活の命にみなぎる主を捜せばよいのか分かりません。婦人たちは喜びながらも、はっきりした確信のないまま、一部始終を弟子たちに話します。弟子たちも希望を失い、墓にいる死人のように「死の力」に支配されていたのでした。彼らもイエス様が「死に追いやられた」という考えから抜けることができなかったので、婦人たちの話が理解できません。
それでも、何とか気力を振り絞って、墓を確かめに行きました。イエス様はそこにはいませんでした。もはや、「死の力」はイエス様を支配していなかったのです。イエス様はご自分で命を捨てることもでき、再び命を受けることもできることが、今証明されたのです。
福音書は、出来事に驚きながら家に帰ったところで終わっています。それを私たちとのつながりで考えて、今日の説教の結びとしたいと思います。私たちも、復活されたイエス様を、「死の力」が支配する場所に探し求めても見つからない、ということです。
困難にうちひしがれそうになるとき、私たちが「死の力」に支配されたままでは、イエス様を見つけ出すことはできません。「困難の中にあっても、イエス様はわたしを希望ある場所に移してくださる」と考えるとき、「死の暗闇」を打ち破ったイエス様に出会うのです。復活の出来事は、イエス様が死の支配を打ち破り、すべての人を希望へと移してくださることのしるしではないでしょうか。
復活の喜びの中で、主は死の暗闇に支配されないことを学びました。私たちも、復活した主の証し人として、「暗闇は光に打ち勝てない」ということを、生活の中で証ししていくことにいたしましょう。そのための力を、復活した主に願い求めることにいたしましょう。
【太田尾の花嫁】
太田尾日暮れて 夕波小波
馬込教会へ お嫁に行くの。
「過疎地」と 誰もが心配するけれど、
釣りはできるから 大丈夫なの。
造船団地と サヨナラするのよ
幼い「しょうま」が 行くなと泣いた(泣いてくれるかなあ〜)
男だったら 泣いたりせずに
「しんや」にいちゃんと ミサ答え してね!
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‥次の説教は‥‥
復活節第2主日
(ヨハネ20:19-31)
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