主日の福音04/04/09
聖金曜日(ルカ13:1-9)
十字架のいけにえは、あなたの罪を覆います

昨晩、ご自分の弟子たちにその愛の極みをお示しになったイエス様は、今日、実際にご自分のすべてを私たちのために投げ出してくださいました。福音は、キリストの死が、実際にすべての人の罪のためであったことを思い起こさせます。何人かの人物の言葉を拾ってみましょう。

ペトロは、ここで弟子たちの代表として登場します。もっと言えば、イエスに最期までついていくことを明言した人々の代表です。神に従うとの熱烈な意志があっても、神の恵みなしには最期までやり遂げることはできません。自分で公言したことすら、自分の力で果たせなかったペトロの、弱さ、惨めさを、イエス様は喜んで担い、十字架へと向かいます。

またピラトは、地上の権威をまとった人々の代表です。言い換えれば、キリストの権威を最高のものとして認めることを渋る人々の代表です。権威が神から与えられていることを理解せず、自分のとるべき態度をイエス様に聞こうとしていません。そしてずるずると借り物の権威に振り回された判断を下してしまいました。イエス様は彼の罪をも担われました。

多くの群集は、一部の知識階級の人々の妬みに踊らされました。人間には、正しいものを正しいと認めるすぐれた知恵が与えられているのに、それを大切なときによく利用することができませんでした。神が恵みとして与えている知恵を、正しく利用できなくなってしまったすべての人の罪も、イエス様は担われたのです。

最後に、いっしょに十字架に架けられたうちの一人は、あとわずかで確実に死刑にされると分かっていても、救われたいと考えませんでした。命拾いしたいと思ったかも知れませんが、イエス様を呪います。もう一人の犯罪人が、命乞いをせず、イエスに最後まで救いの希望を置いたというのとは対照的です。いよいよになってもキリストを拒み続け、最後まで呪った犯罪人の罪も、おそらくイエス様は背負ったのでしょう。

十字架につけられたイエス様に、今すべての人が注目しています。日曜日の福音で、イエス様がおっしゃったように、人間は、「自分で何をしているのか分からない」のです。自分の力に頼って、かえってキリストを悲しませたペトロ。むなしい権威にしがみついて、キリストを悲しませたピラト。人の言うことに踊らされて、イエス様に悲しい思いをさせた群集。最後が迫っても呪い続けた犯罪人。一人ひとり振り返るときに、この三つの代表のどれかに、自分自身のかたくなな態度が重ならないでしょうか。

私が、本来は釘で打たれなければならないのです。今私たちの替わりに、釘の痛みを一身に引き受けておられるイエス様に、深い信頼を寄せましょう。憐れんでくださいという叫びよりも、すでに憐れみ深く赦してくださったことに、今は感謝を捧げましょう。十字架のいけにえは、どんな罪人の罪をも超えることを固く信じて、誰か一人でもいいから、証しする者となることができますように。
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‥次の説教は‥‥
復活徹夜祭
(ルカ24:1-12)
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