主日の福音04/04/08
聖木曜日(ヨハネ13:1-15)
イエス様によく倣う人は誰かを活かす人になる

今日、聖木曜日の説教として、ご聖体のうちにとどまられるイエス様に目を注ぎ、イエス様が示された深い愛について考えていきたいと思います。

ご聖体は、パンの形は見えるけれども、イエス様そのものは捉えることができないという、ただ信仰だけがそれを教えてくれる出来事です。かつて、私の親戚親戚にあたる方の家を訪ねたとき、ご主人の奥さんからそのことをよく教えてもらいました。

「主人とミサに行くことがありますが、ミサのときに主人がいただいている小さなものは、何なのですか?」私が答えるまでもなく、隣からご主人が答えてくれました。「あれはイエス様さ。キリスト教の神様。」「ふーん。」大抵はそれで納得して話は終わります。ですがそこには、「ふーん」では済まされない大きな出来事が起こっているのです。

ご聖体はイエス様。聖体の秘跡をこれ以上に手短に言うことはできません。人間の考えをいつも越えておられる神様が、最後にたどり着いたご自分の姿。「まさか、こんなことはできないだろう。」そのまさかをやってのける神様の最後の奇跡が、人間の食べ物となり、食べられてしまうということなのです。

私たちは、枝の主日に、聖パウロの次の言葉を聞きました。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」(フィリピ2:6)。聖パウロのこの言葉を借りれば、ご聖体は「自分を無にした姿」と言うことができます。「自分を無にする」。これはとても意味深い言葉ではないでしょうか。

どんな人でも、自分を差し出すことを知っています。「座ってもいいですか?」「いいですよ」「お借りしてよろしいですか」「どうぞどうぞ」。中にはもっともっと寛大な人もいると思います。ですが、それでもやはり何かが残ります。すなわち「自分自身」というものが残ります。どうぞと差し出す、また人知れず善業をするとしても、「自分」というものは残るわけです。

キリストは、誰もが残しておくはずの「自分自身」さえも与え尽くすことを計画されました。寛大な人が、どんなに与えても与えることのできない「自分」というものを、イエス様は与えてくださったのです。

食べ物を例に考えてみましょう。家庭で食事を取るとき、出された料理に、「料理さん、食べていいですか?」と料理に話しかけて食べる人は誰もいません。食べる人が主人であり、食べられる料理はその主人のためにあるのです。

ですから、食べられる料理は、完全に「自分自身」を与え尽くしています。料理は人を選びませんし、感謝も求めません。「自分」がないからです。自分を無にして、人を生かすよう準備されているからです。

キリストは、これと同じような姿で、今私たちの前にとどまっておられます。黙って食べられるもの、あたかも自分が僕で、食べる私たちが主人であるかのような姿を、自ら望んで選ばれたのです。こんな思いを重ねながら、私たちはミサの中でいただくご聖体を眺めてみてはいかがでしょうか。

これまで、そのような思いでご聖体を眺めたことがあったのでしょうか。私たちを生かすことだけを考え、何も残らなくなるような姿を選ばれたイエス様が、私には本当に見えているのでしょうか。

イエス様は自ら先頭に立って、人を生かす道を示してくださいます。私たちも、イエス様に養われながら、人を生かす道を学んでまいりましょう。私が、自分を与える場所はどこですか?家庭ですか?職場ですか?学校ですか?教会ですか?そこで「自分自身」を差し出して、ご聖体に養われている証しをたてましょう。

この聖体礼拝を、感謝と信頼のうちに進めながら、人を生かす自分に変えられるよう、恵みを願いましょう。
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‥次の説教は‥‥
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(Jn 18:1-19:42)
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