主日の福音04/04/04
受難の主日(ルカ23:1-49)
エルサレムでこれ以上ない愛を示された

今日、全世界の教会で、主のエルサレム入城が記念されます。イエス様はみなの先頭に立って進み、エルサレムに上って行かれます(19:28)。私たちもイエス様に付き従い、カルワリオの丘をを目指して進みましょう。

ルカは、福音書を書くにあたって、イエス様が旅をしておられる場面をいたるところに盛り込んでいます。また、イエス様の生涯を、エルサレムへの旅という捉え方で描き、それを柱として組み立てています。

旅には出発点とか、終着点というものがあります。イエス様がここまで残してくださった一つひとつのわざを振り返るために、エルサレムが旅の終着点なのだと見ると効果的です。生涯のあのわざこのわざは、目的地であるエルサレムという場所をよく理解し、そこに立ち、振り返って眺めるとき、その本当の意味をつかむことができるわけです。

本来華やかなはずのエルサレムは、ルカの描き方では華やかさとは無縁な、どちらかといえば「むごい出来事が待ち受けている場所」といった感があります。旧約を例に引くと、神の民に遣わされた預言者がその民から拒まれ(13:34)、彼らが壮絶な最後を遂げた場所(13:33)、そしてまた、イエス様ご自身がご自分の民から拒まれて、受難と死に赴いた場所として(23:1-49)描かれます。このような場所に、イエス様は決然と(9:51)、人々の先に立って、上って行かれるのです(19:28)。

ところで、「厳しい出来事が待ち受けているエルサレム」という見方に立ったとき、次のような疑問が湧いてくるでしょう。「人々が地方で目の当たりにしたさまざまの奇跡、恵み深い言葉は、エルサレムでのむごい死のためにあったのだろうか。さまざまの奇跡や恵み深いことばと、エルサレムでのご受難とご死去を、どう結びつけたらよいのだろうか」と。

教会は、私たちのこのような疑問に、典礼の流れを通して答えようとします。イエス様のあのような最期は、私たちが「与え尽くす神の愛」を知るために必要なことであった、またイエス様がなさった数々の奇跡の本当の意味を知るために、どうしても必要なことであった、と教えるのです。実際に、典礼はどのように私たちの心を準備しているのでしょうか。

先先週、私たちは放蕩息子のたとえ話を聞き、先週はイエス様ご自身、姦通の女性をお赦しになりました。イエス様は、神の慈しみ、赦しを示すために、まずたとえでお語りになり、続いて、実際の体験に導いてさらにそれを身近なものとしてくださいました。さらに今週は、その愛深い神が、ついにはご自分を与えることによって「与え尽くす神の愛」を示そうとされたのです。人が回心し、神に立ち帰るために、神が自分のために何も残さない方であることを、教会の典礼は順を追って私たちに示そうとしているのです。

神の愛の集大成が、エルサレムでの受難にあると分かりました。そうであれば、私たちも、イエス様のエルサレム入城のお供をすることが求められます。それは、華やかな奇跡に踊らされ、地上の王を期待して歓喜の声をあげた当時の人々のようにではなく、すべてを与え尽くそうとしておられる神の愛にあずかるための入城です。

それは同時に、私たちの罪を認め、赦しを得るための道のりであり、これからはキリストに向きなおって生活を整えようとの決意を新たにする旅でもあります。と言うのは、無理解のうちに歓喜の声をあげてエルサレム入りした人々さえも、最期には胸を打ちながら帰って行ったからです(23:48)。

イエス様のエルサレム入城にあわせて、私たちも共に入城いたしましょう。イエス様の入城に私たちがついて行かなければ、本当のイエス様の姿を理解できないからです。逃げることなく、エルサレム道中をお供しなければ、イエス様の生涯のすべてのわざが、最後は何も残さないほどの愛に包まれていたことが、悟れないからです。

共に入城することで、私たちはこれまでの罪な生活、神の望みを無視し、神に背を向けていた生活が思い出されることになるかも知れません。けれども最期までイエス様の十字架への道のりを共にした者だけが、赦しと平安を得、胸を打ちながら帰って行くことができます。

聖週間を通して、主の過越しに心を合わせ、イエス様の神秘に十分注意を払って時を過ごしましょう。可能であれば、聖木曜日や聖金曜日の礼拝に参加してみてください。カルワリオへの道を、聖週間の典礼にあずかって共に歩むとき、私たちは主の復活をより身近に感じ、その恵みを十分に味わうことでしょう。そのような恵みの一週間になるよう、続けて祈ってまいりましょう。
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‥次の説教は‥‥
聖木曜日
(ヨハネ13:1-15)
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