主日の福音04/03/21
四旬節第4主日(ルカ2:41-52)
「お前のあの弟」は戻ってきたではないか

(本日、「心のともしび運動」の神父様がキャンペーンにおいでになりましたので、こうじ神父は説教しておりません。録音も、マクドナルド神父様の説教です。)

今日の福音は、「放蕩息子のたとえ話」ですが、私たちに神の愛の深さをみごとに言い切っていると思います。実際にはイエス様自身がこのたとえを語ってくださったと意識しながら、私たちの心を神の愛に向けて開くことにいたしましょう。

今日の箇所は、大きく二つに分けることができます。前半の弟の物語と、後半の兄の物語です。そしてよく見ると、どちらも、同じ父の言葉が織り込まれています。「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」「お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ」。どうやら、この父の言葉が物語を解きあかす鍵となっているようです。

ここで「いなくなる」とされている言葉は、「本来の場所から離れてしまい、持っている力を出し切れずに滅びへ向かう」といった意味合いがあります。「いなくなった」とだけ記されていますが、それは単に姿が見えなくなったというのではなく、「滅びに向かう転落」をも意味しています。本来の生き方を見失い、迷子になった弟は、霊的に死んでいたのでした。

ところで、この弟の態度に注目すると一つのことが分かります。それは、弟は最後のよりどころとして父の家を忘れず、身の振り方を完全に父に委ねたという点です。悔い改めて、立ち帰ったあとは、すべてを父の判断に委ねたのです。

「運を天にまかせる」という言葉があります。自分でやるべきことをすべて果たした上で、結果は神に託してしまうというものです。これは、誰にでもできるというものではなく、神への全面的な信頼、神に委ねきる決意がなければできないものです。物語に登場する弟は、戻ってきたときには父にすべてを委ねる用意ができていました。

弟の姿を私たち一人ひとりに当てはめてみましょう。私たちは、生活の中で、自分の意志を神に委ねる用意ができているでしょうか。神に最後の判断を委ねる生活をしているでしょうか。自分の判断を信仰生活の基準にしていないでしょうか。自らの判断が信仰生活の基準になっている人は、しだいに神である父の望む生き方からそれていき、進歩は望めないのです。

物語の弟は、自分の判断を生活の基準としてきた結末が、財産の浪費、飢えとして示された「霊的な乏しさ」につながっていったのだと悟りました。そして回心し、これからは、父の姿で現された神に生活の基準を置く決心をしたのです。物語の父はこの態度を心から喜ばれ、祝宴を開いて喜び合ったのでした。

さて、兄の方はどうでしょうか。ある意味では、兄もまた父の愛から迷い出ていたと思います。弟は見える形で父の愛から離れましたが、兄は目に見えない形で、父の愛から遠ざかっていました。兄の言葉のはしばしから、そのことを知ることができます。

「このとおり、私は何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。」兄にとって、自分が父の愛に留まっているという判断の基準は、自分の中にあり、父のおかげであるとは思っていないようです。これでは、霊的な意味で迷子の状態にあり、進歩は望めません。弟の回心をどう理解するかというときに、判断の基準が兄の心の中にあるため、父よりも厳しい、それはつまり「神よりも厳しい裁き」を下してしまうのです。残念なことだと言えます。

神に判断の基準をおくかどうかは、日々の生活を回心に向けることともつながりがあります。一つの例を紹介いたしましょう。

ある病人の話です。その方は病気のあいだの無力さを次のように話してくれました。「神父様、私は今ロザリオをしたくても、手に力が入らんのです。十字架の印をしたいけれども、腕を上げる力がなかとです。こんなにはがゆいことはありません。」

私は、この方のつらさ、悲しさに同情しながらも、次のような声をかけたと記憶しています。「神様は、あなたの心を神様に委ねきってほしいので、しばらくのあいだ、信心するためのロザリオと、十字架のしるしをする力を取り上げ他のだと思います」

「手を合わせることがかなわなくても、きっと、あなたの心を神様に完全に捧げることはできるはずですよ。そうでなければ、『信心があるから、私は神様につながっている』と考える誘惑に負けるかもしれません。お父さんはきっと分かっているはずです。今のあなたに神様が期待していることは、信心でなく信仰だということです。」

この方が、その後どのような闘いを続けておられるのか、私には分かりません。けれども私は、この方の信仰にかけてみたいと思いました。この人から信心が奪われても、心を神に捧げきる信仰は奪われることがない、そんな思いがしたからです。神様が用意してくださった霊的な飢えだから、人間の信心によって癒されるはずはない。きっと神ご自身がこの人の信仰を見て癒してくださる。今日の福音を黙想しながら、つくづくそう感じたのです。

この病人の生き方を、私たちも倣いたいものです。実際の生活は、弱さのために、罪に陥り、神様を悲しませる毎日かもしれません。けれども、最後のよりどころ、判断の基準を神に置き、私の信心にだけ頼ることなく、神に与えられた信仰に生きるよう、心がけましょう。毎日が神に向き直る回心の場となり、主と共にあることを喜ぶことができるよう、生き方を整えてまいりましょう。そのための恵みを、主に祈ってまいりましょう。
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‥‥次週は‥‥‥
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(ヨハネ8:1-11)
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