主日の福音04/03/14
四旬節第3主日(ルカ13:1-9)
滅びるのが嫌で実をつけるのではなく

四旬節の第三週目に入りました。今週は、朗読された箇所の後ろ半分について考えてみましょう。神は、どんなときにも人間に期待をかけてくれている、そのことを考える週にしましょう。

ぶどう園の主人が、園内にいちじくの木を植えて、実がなるのを楽しみに様子を見に来ますが、いっこうに実をつけません。そこで園丁にもうこの木は見込みがないからと、切り倒すように言いました。もちろん園丁は何とかいちじくの木を残してあげようと主人を説得するわけです。主人と園丁との熱のこもったやりとりが、物語の中心だと思われます。

さてこの両者は、「いちじくの木」に期待をかけているのでしょうか、あまり期待していないのでしょうか。私は、主人も園丁も、どちらもいちじくの木に期待をかけているのだと思います。主人は、期待するあまり、かわいさ余って「もういっそのこと切ってしまいなさい」とつい言ってしまいますが、自分の手で植えたところを見ると、決して切り倒したいわけではないと思います。

当然園丁は返事から考えてできれば切りたくない。そう考えると、この登場人物には神様のことが込められているのではないかなあと思っています。ぶどう園と園丁という形で登場させていますが、つまりは「役割の違いはあるけれども、いちじくの木が実をつけるのを待っている神」私たちが信じる三位一体の神のことを言おうとしているのではないでしょうか。

では、御父と御子が、「まだ実をつけないのかなあ」と見守っているいちじくの木は何を意味するのでしょう。それは私たち人間のことです。父である神が植えてくださり、イエスキリストによって養ってもらっています。それぞれの役割で私たちに関わってくれているのですが、私たち人間は、神の期待するほどの実をなかなかつけないのです。

神様が期待する実は、「改心の実」であったり、「宣教の実り」であったりするでしょう。そろそろ改心が必要になっているはずだが、自分でも分かっているはずだが。また、宣教に手を貸す十分なチャンスと時間を与えたが、まだこれといった動きが見えない。

それでも、命を与えてくださった神は、長く私たちに期待をかけてくださいます。世話をしてくださるイエス様は、考えられるすべての方法を試しています。神様の期待に応える人間に育つために、できることはすべて施してきたから、当然期待してもよいわけです。

「三年も待っている」という言い方は、何か意味があるのでしょうか。三という数字は、イエス様が三日目に復活したということを思い起こさせます。または、カナの婚礼で、水をぶどう酒に変えた話を思い出します。まとめると、三という数字は、すっかり出来事が変わってしまうほど、神様の働きが入り込むときのことです。「三年たったから切り倒す」とは、これ以上待たずに、はっきりと力をあらわして、滅ぼしてしまうということかも知れません。

もしも神様が人間を滅ぼすとお決めになれば、それは可能かも知れません。物語の中で主人は命令すれば切り倒すことができますし、園丁は「それでもだめなら切り倒してください」と言っていますから、切り倒すことは否定しませんが、それでも切り倒したくない、一人も滅びることを望まない神の憐れみ深さを、改めて私たちは考える必要があると思います。

あまりに期待されると、たいへんな負担と感じるかも知れません。ですが、神はあなたに命を与えた方です。いつも、どんなことになっても、滅びて欲しくない、むしろ小さな実でもよいから、一つでもよいから、実をつけてくれ。生きた信仰は、神の期待に何かの形で応えようと、思うものではないでしょうか。

それは例えるなら、親が子に対して期待をかけているのと同じです。期待のかけすぎと思うかも知れませんが、自分の子がどんな小さなことでも返してくれる、答えてくれる、それだけで親というものはすべての苦労を忘れるものです。私に期待しないでくれ、どうなっても心配しないでくれと言われること。それは、親にとっても神にとってもつらいことだと思うのです。

いちじくの木も私たちも、切り倒されるとしても逃げることはできません。投げやりな態度で時を過ごすこともできますが、実をつければ心から喜んでくださる主人や園丁のことを考える生き方はずっと優れています。

「滅びが怖いから従う」のではなく、命をくださった方の思いに少しでも応えよう、その気持ちで残る四旬節の過ごし方を考えることにしましょう。
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‥‥次週は‥‥‥
四旬節第4主日
(ルカ15:1-3,11-32)
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