主日の福音04/03/07
四旬節第2主日(ルカ9:28b-36)
死と復活への道は、光り輝く栄光の道

生月教会の黙想会に行ってきました。こちら大島と同じく、「橋が架かっているけれども、島の暮らし」という環境ですから、お互いに通じ合うものを感じました。私にとっては、よく似た場所で説教をさせてもらいましたので、そう緊張することもなく、のびのびと話をさせてもらいました。こちらを留守している間に、何かと不便をおかけしましたこと、お詫びします。

さて、福音はイエス様の姿が変わり、いっしょにいた弟子たちがその神々しさに我を忘れたという様子が描かれていました。ペトロは、あまりに神々しい姿を見たものですから、自分で何を言っているかも分からないうちに「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう(以下省略)」と言い始めます。

気持ちが高揚して、何を言っているのか分からなくなる。何度か私はそういう場面に立ち会ったことがありますが、そんなときにどんな言葉を返すのか、考えてみると難しい気がします。

「何言ってるの?あなた変だよ」と言えば、相手の心を傷つけるかも知れません。また、本人が舞い上がってしまっているうちに出てきた言葉ですから、それを咎めるのも適当ではないかも知れません。

少し配慮した言い方をすれば、「私の考えはこうなんですよね」と、話している相手のことばには直接触れないで、「こう考えたほうが、的を射ているのではないでしょうか」と、やんわりと返すことでしょう。

ペトロが、自分でも何を言っているか分からずに話したあとに、雲の中から声が聞こえました。「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」。雲の中で響いた声、それは父なる神の声ということですが、神はペトロのことばに直接触れようとはしませんでした。「お前は何をトンチンカンなことを言っているんだ」などという言い方はしなかったのです。それは、舞い上がっているペトロへの配慮だったのかも知れません。

今日の福音を考える一つの鍵は、神様の配慮が込められたことば、「これはわたしの子、これに聞け」を思い巡らすことにあります。何をどう聞きなさいと仰っているのでしょうか。そしてこの声は、イエス様といっしょに山に登ったペトロ・ヨハネ・ヤコブだけに言われたことばなのでしょうか。

聖書の中で「聞く」ということばは、旧約聖書の時代から繰り返し使われてきた言葉です。預言者たちが神の権威をもって話すとき、「聞け、イスラエルよ」という呼びかけをしたのがその代表です。

そして、イエス様もまた旧約聖書の言葉を引いて、神を愛するという第一の掟(「イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」)を教えました。

この二つの例からも、聖書の中では、「聞く」という働きはとても大切なものとして扱われていることが分かります。もっと詳しく話せば、「神の言葉を聞き受け入れる」とは、単に注意深く耳を傾けることだけでなく、心を開き、実践し、聞き従うことまで含まれているのです。神のことば・神の声を聞くとは、聞いて、従うことを含むのです。

そう考えるとき、雲の中から聞こえた声は、イエスにこれからも聞き従っていくこと、これから起こるであろう出来事に恐れずについて行くことをさとしていることになります。仮小屋を建てるとは、イエス様の歩みをいったん止めてしまうことであって、イエス様に従うこと、聞き従うことにはならないのです。

今日の出来事を考えるもう一つの鍵は、出来事の前後が「死と復活の予告」ではさまれている、ということです。死と復活の予告があり、お姿が光り輝く出来事があり、再び死と復活の予告を迎える。ということは、全体としてはやはり死と復活へと向かっているわけです。死と復活への歩みに、停止や休止はない、歩みを止めることなく、御子キリストに従いなさい、それが「これはわたしの子、かれに聞け」という意味なのです。

死と復活への歩みであれば、それは限られた弟子たちだけの問題ではありません。私たちも含めて、出来事を見届けるために、歩みを止めてはならないと思います。

死と復活への歩みが、光り輝く栄光を現す道です。私たちがこの困難な道を付き従い、死と復活が栄光への道であることを悟らせていただけるように、四旬節の準備の期間をさらに一週進めていくことにいたしましょう。


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‥‥次週は‥‥‥
四旬節第3主日
(ルカ13:1-9)
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04/3/14(No.113)
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四旬節第3主日
(ルカ13:1-9)
滅びるのが嫌で実をつけるのではなく
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四旬節の第三週目に入りました。今週は、朗読された箇所の後ろ半分について考えてみましょう。神は、どんなときにも人間に期待をかけてくれている、そのことを考える週にしましょう。

ぶどう園の主人が、園内にいちじくの木を植えて、実がなるのを楽しみに様子を見に来ますが、いっこうに実をつけません。そこで園丁にもうこの木は見込みがないからと、切り倒すように言いました。もちろん園丁は何とかいちじくの木を残してあげようと主人を説得するわけです。主人と園丁との熱のこもったやりとりが、物語の中心だと思われます。

さてこの両者は、「いちじくの木」に期待をかけているのでしょうか、あまり期待していないのでしょうか。私は、主人も園丁も、どちらもいちじくの木に期待をかけているのだと思います。主人は、期待するあまり、かわいさ余って「もういっそのこと切ってしまいなさい」とつい言ってしまいますが、自分の手で植えたところを見ると、決して切り倒したいわけではないと思います。

当然園丁は返事から考えてできれば切りたくない。そう考えると、この登場人物には神様のことが込められているのではないかなあと思っています。ぶどう園と園丁という形で登場させていますが、つまりは「役割の違いはあるけれども、いちじくの木が実をつけるのを待っている神」私たちが信じる三位一体の神のことを言おうとしているのではないでしょうか。

では、御父と御子が、「まだ実をつけないのかなあ」と見守っているいちじくの木は何を意味するのでしょう。それは私たち人間のことです。父である神が植えてくださり、イエスキリストによって養ってもらっています。それぞれの役割で私たちに関わってくれているのですが、私たち人間は、神の期待するほどの実をなかなかつけないのです。

神様が期待する実は、「改心の実」であったり、「宣教の実り」であったりするでしょう。そろそろ改心が必要になっているはずだが、自分でも分かっているはずだが。また、宣教に手を貸す十分なチャンスと時間を与えたが、まだこれといった動きが見えない。

それでも、命を与えてくださった神は、長く私たちに期待をかけてくださいます。世話をしてくださるイエス様は、考えられるすべての方法を試しています。神様の期待に応える人間に育つために、できることはすべて施してきたから、当然期待してもよいわけです。

「三年も待っている」という言い方は、何か意味があるのでしょうか。三という数字は、イエス様が三日目に復活したということを思い起こさせます。または、カナの婚礼で、水をぶどう酒に変えた話を思い出します。まとめると、三という数字は、すっかり出来事が変わってしまうほど、神様の働きが入り込むときのことです。「三年たったから切り倒す」とは、これ以上待たずに、はっきりと力をあらわして、滅ぼしてしまうということかも知れません。

もしも神様が人間を滅ぼすとお決めになれば、それは可能かも知れません。物語の中で主人は命令すれば切り倒すことができますし、園丁は「それでもだめなら切り倒してください」と言っていますから、切り倒すことは否定しませんが、それでも切り倒したくない、一人も滅びることを望まない神の憐れみ深さを、改めて私たちは考える必要があると思います。

あまりに期待されると、たいへんな負担と感じるかも知れません。ですが、神はあなたに命を与えた方です。いつも、どんなことになっても、滅びて欲しくない、むしろ小さな実でもよいから、一つでもよいから、実をつけてくれ。生きた信仰は、神の期待に何かの形で応えようと、思うものではないでしょうか。

それは例えるなら、親が子に対して期待をかけているのと同じです。期待のかけすぎと思うかも知れませんが、自分の子がどんな小さなことでも返してくれる、答えてくれる、それだけで親というものはすべての苦労を忘れるものです。私に期待しないでくれ、どうなっても心配しないでくれと言われること。それは、親にとっても神にとってもつらいことだと思うのです。

いちじくの木も私たちも、切り倒されるとしても逃げることはできません。投げやりな態度で時を過ごすこともできますが、実をつければ心から喜んでくださる主人や園丁のことを考える生き方はずっと優れています。

「滅びが怖いから従う」のではなく、命をくださった方の思いに少しでも応えよう、その気持ちで残る四旬節の過ごし方を考えることにしましょう。
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四旬節第2主日
(ルカ9:28b-36)
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