主日の福音04/02/29
四旬節第1主日(ルカ4:1-13)
イエス様がきっぱり断ったように断る

最近やみくもに教会学校で子供を叱ることがあるものですから、カルシウムが足りないのかなあと思って、ふだんの食生活を振り返っているところです。きっと、子供たちが原因なのではなくて、カルシウムが原因に違いないと一所懸命自分を納得させております。
叱られた学生は、「何でおこってるの?神父様が逆ギレした」と思っているかも知れませんが、カルシウムが足りないと、プリントの答えを教えるときに「そういうときは、こう考えれば答えが出てくるだろう?どうして一つのことばかりに気を取られるの」と「導いている」つもりなのですが、「あー、なんだ」と言われ、「なんだじゃない、なーるほどと思わないと、いつになっても覚えられないじゃないか」と、カルシウム不足が出るわけです。

学生時代に与えられている時間はほとんど差がないと、私は口酸っぱく話すのです。ぼおっとして過ごす三年間も、「なるほど、なるほど」と思いながら過ごす三年間も、長さは変わらない。けれども結果はまるっきり変わってくるんだと、ことあるごとに言うのですが、どこまで届いているのでしょうか。不安になることもあります。

さて、過ぎた水曜日から、四旬節に入りました。イエス様の死と復活をふさわしく迎えるために、この期間にさまざまな訓練をしていただくことにしましょう。今日の福音は、イエス様が荒れ野で四十日間を過ごしたことが取り上げられています。

「悪魔から誘惑を受けられた」とはっきり書かれていますので、イエス様は四十日の間、葛藤や、迷いや、気弱になることがあったのかも知れません。「まことの神、まことの人」であるイエス様にも、人間が誘惑にあったときの闘いが、きっとあったに違いないと思うわけです。

誘惑が私たちに及ぼす影響はどんなものでしょうか?「ちょっとぐらいいいじゃないか」「誰でもそんなことくらいやっているよ」。誘惑を許してしまうと、自分が正しいと思っている基準が下がり、自分で自分の価値を下げてしまいます。また、「あの人よりはまし」と、どうにでも変えられる物差しで自分を偽ることになります。どんなに私たちが警戒していても、「誘惑する者」(悪魔)は私たちがいちばん陥りそうなことから二つ三つを拾って、人間の価値を卑しめようとするのです。

この世に生きる限り誘惑は避けられませんが、誘惑をそのまま引き寄せる人と、誘惑を毅然として払いのける人とでは、結果がまったく違ってくるのではないでしょうか。ある人はよほど自分に自身があるのか、「どの程度の誘惑までだったら、私は誘惑に負けないだろうか」と考えています。明らかにそれは間違っているのではないでしょうか。

「どれくらいの誘惑だったら大丈夫だろうか」。どれくらいも何もありません。すべての誘惑が、私たちにとって拒否すべき事柄ではないでしょうか。そう考えるとき、イエス様がどのように誘惑を退けていったかを学ぶことは、意味があると思います。

誘惑の一つ、イエス様は、石をパンにしたらどうだとそそのかされました。「一個だけ、パンに変えて食べても、誘惑に負けたことにならないだろう」。本当にそうでしょうか。イエス様は誘惑のままに手に入れるパンのひとかけらさえも、拒否したのです。どんな小さな誘惑も、私たちのためにならないということです。

「なるほど」と思った人がたくさんいらっしゃることを希望しております。なあんだと思えば、いつまでも私たちは誘惑とうまくつきあおうなどと愚かなことを考えることになります。ここでいっしょに、「そうだそうだ、どんなに小さな誘惑でも、私たちは受け入れません」と、はっきり声を上げてもらいたいと思います。

誘惑に隙を与えて、どれだけ痛い目にあっても、まだ少しくらいの誘惑は大丈夫と思っている人がいます。人間はイエス様のようにはきっぱり拒否する力はないと思います。そう考えるときに、今のこの四旬節に、どんな小さなごまかしも、私のためにはならないということを、四十日かけて考えてみるのも良いと思います。

イエス様の死と復活を準備するこれからの四旬節に、針の先ほどの誘惑だったら許しても大丈夫なのか、すべての誘惑にノーと言うつもりなのか、改めて神様に返事をしましょう。力が足りないこともあります。退けるための力を頂くことができるように、ミサの中で願いましょう。
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‥‥次週は‥‥‥
四旬節第2主日
(ルカ9:28b-36)
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