主日の福音04/02/22(No.110)
年間第7主日(ルカ6:27-38)
神様の愛は、あふれて外に働く

本日、四名の子供たちが初聖体を受けます。神様がこれまで準備してきた子供たちを、恵みで満たしてくださいます。今日の福音とのつながりを考えると、神様は憐れみ深く、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてくださるということです。

初聖体を受けるまで、子供たちはほぼ一年にわたって、祈りを覚え、ミサのあずかり方を体験しながら身につけてきました。その子供たちを、神様は恵みで満たしてくださいます。私たちは、準備したことにふさわしい何かを子供たちに与えることはできますが、神様は今日、私たちの努力をはるかに超える恵みで返してくださいます。

イエス様が、御聖体となって今日四名の子供たちに来てくださることを、今年は改めて考え直しています。神様が与えてくださるものをふさわしく受けるために、本当はどれだけ準備してもつり合わないのに、イエス様はそれを知った上で、子供たちに来てくださいます。

私たちのほうからできることと、神様が与えてくださる恵みとの開きに、今年は改めて驚いています。神が恵みを与えてくださるというのは、これはつり合いの取れるものを交換することではなくて、いつも、あふれる恵みを与えてくださるということなのだと、今年は考えさせられました。

この、神様のあふれる愛を私たちの手本としなさいと、今日イエス様は教えて下さいました。「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」。父である神の姿に倣ってと言っているのですが、二つの面を見つけることができると思います。

一つは、「恩を知らない者にも情け深い」のですから、何も当てにしないでお世話して下さいと励ましています。何かを期待して手を差し出すのではなくて、この子にとって今必要なことだから、その人に私ができることだから、それだけで世話をしなさいということでしょう。

もう一つは、「神様の憐れみ深さに見習って」あなたも行いなさいという勧めが込められていると思います。神様は初聖体のこの日、ご自分の御子イエス様を食べ物として用意して下さいました。私たちの準備がどれほどであっても、神様がくださる恵みはいつもあふれ出る恵みです。神様は私たちを、あふれ出る思いからお世話することに招いていると言えるでしょう。

何も当てにしないでお世話するというとき、「あふれるほどの熱意」は必要ないかも知れません。当てにはしていないけれども、この子に必要なことだけはお世話します。そんな気持ちでもお世話はできるからです。けれども、まったくつり合わないほど愛情を注ぐためには、あふれるような気持ちがなければできないと思うのです。

この、「あふれるほどに量りをよくして与える」神様に倣うことは、隠された別の思いが込められていると考えています。私たちが器に何かを注ぐとき、初めのうちはその器を満たす働きをします。ですが、器が満たされても、それでも何かを注ぎ続けるなら、その後はすべて外へ流れ出てしまうことでしょう。

つまり、「あふれ始めた」その時から、注いでいる物は外へ向かっていくのではないでしょうか。あふれるように注ぐ、そのように働きかけるときに、私のお世話はすべて外へ向かって、あの人この人に向かって流れていくのではないでしょうか。

神様は、あふれる思いからご自分を与えようと御聖体を残して下さいました。あふれる思いから出る働きを、今日イエス様は私たちに期待しているのだと思います。これまで続けてきたことが、真に人のためとなるように、あふれ出る憐れみ・いつくしみでまことのお世話を続けていけるように願いましょう。

そして、御聖体を頂いてあふれる恵みに潤される子供たちが、これからも着実に成長していくことができるよう、ミサの中で祈りましょう。
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‥‥次週は‥‥‥
四旬節第1主日
(ルカ4:1-13)
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