主日の福音04/2/15(No.109)
年間第6主日(ルカ6:17,20-26)
「幸いと不幸」がはっきり見えていますか

今日の福音は、幸いであるか、不幸であるかは、神様の目からははっきりしている、ということです。イエス様はこう言っています。「今、これこれの人たちは幸いである」「今、これこれの人々は不幸である」と。イエス様の目から見れば、この人が幸いであるか、不幸であるかは、はっきりしていると言いたいのではないでしょうか。

「神様の目から見れば」とことわりをつけたのですが、幸い・不幸は私たち人間の目から見ると人さまざまだと思うのです。ある人にとって幸いと思えることも、ある人にとっては不幸と感じる、人それぞれだとも言えるし、環境や価値観人生観で変化すると思っているかも知れません。

ですが、イエス様ははっきりと、「幸いと不幸」のあいだに一線を引きました。人間の目からは、幸いと不幸は曖昧で、はっきり分けられるものではないと考えているのに、どうしてイエス様の目からはそんなにはっきりしているのか、不思議に思えます。

ここで考えなければならないことは、「何を幸いと言っておられるのか」「どんな姿を、どんな生き方を、幸いとイエス様は言われたのか」ということです。そしてできることなら、私たちの見方も、イエス様が世の中を見ている物の見方に近づくように日々努力すること、これも今日のみことばに含まれていると考えます。

そこで、イエス様が話しておられる言葉を、しっかり吟味することにいたしましょう。「貧しい人々は、幸いである」。ここで言われている「貧しい人々」は、これまで考えてきた流れからすると、「私たち人間の目からは」曖昧なのだけれども、「神様の目から見れば」はっきりしている、ということになります。たしかに、どの辺の生活を貧しいと考えるかは、人それぞれです。けれども、神様が考えている「貧しい人々」は、見分けることができることになります。本当にできるのでしょうか。

こう考えてみてはいかがでしょうか。この世のものがいくら揃っていても、どうしても豊かさを感じることのできない人、こうした人は、イエス様が見ている「貧しい人々」なのではないでしょうか。どれだけ便利なものを揃えても、うずたかく必要なものを積み上げてみても、豊かさを感じられない人。こういう人々を指して、イエス様は「貧しい人々」として見ておられたのではないでしょうか。

もちろん、生活に困っている人々は、イエス様の時代に数多くいたと思われます。その日を何とか生き延びることができた。もっと言えば、今日いのちの灯が消えずに済んだ。そういうギリギリの人々もたくさんいただろうと思います。こうした人々もまた、「自分たちは、物によっては決して満たされることはないのだ」とはっきり自覚していた人々です。たくさんあっても豊かさを感じられない人々、まったく何もなくて、この世の物を頼ることすらできない人々。これらの人々が、イエス様の目にははっきり見えていて、「貧しい人々」として映っていた。そして、「幸いな人」として心に留めてくださっていたのです。

どれだけ物を集めても、どれだけ人に囲まれても、「何かが足りない、私の心はこの世の物では埋まらない」と感じている人々は、イエス様の目から見れば「今飢えている人々」なのだと思います。当然そこには、これまで一度も満足に食べ物を口にしたことがなくて、「私は、腹一杯食べることは一生かなわないのだ」とうちひしがれている人もまた、「今飢えている人々」として忘れてはいません。

ほかにも、「理解されなくて心が叫びをあげている、泣いている人々」「喜ぶものをすべて奪われて、もう泣くしかない人々」が、イエス様にははっきり見えていたのではないでしょうか。彼らは、この世(物であれ、人であれ)を通しては完全な幸せは得られないと、分かっているし、イエス様も、あなたを幸せにするのは、神だけだと、今日ここではっきり伝えようとしているのです。

「幸いである」と呼ばれた人々とは別に、「不幸である」と告げられた人々もいました。イエス様の目には、「不幸な人々」もはっきり見えていた、ということになります。「富んでいるあなた方」まったく神様が入らない人は、私たちの目では判断つかないことがありますが、イエス様の目にははっきり見えていたのでしょう。神様が生活の中にいてくださらないと、私たちに真の平和は保たれません、このように考えない人々は、私たちの目には普通の暮らしに見えても、もはやこの世に心も体も占領されているわけです。富んでいるのです。ですが、神様を受け入れないのですから、不幸としか言いようがないわけです。

「今満腹している人々」腹一杯ということもあるでしょうが、奪い取り、皿までも食べ尽くし、聖体のあのひとかけらさえ必要ない、そう思って礼拝に目を向けない人々は、神様が要らないのですから、不幸としか言いようがないのです。

私は、神様の目から見れば、幸いと呼ばれる生活の中にいるのでしょうか。人の目にはいろいろ映るでしょう。そしていろんな人の目に映ったとおりに、私のことを良くも悪くも言うでしょう。ですが、問題は、イエス様の目に「幸いである」と映っているか、「不幸である」と映っているか、これが問題なのです。

イエス様の目には、どちらかはっきりした姿で映っています。この世の何ものも私を満たすことはできない、ただ神のまなざし・慰め・励ましだけが、私を満たすことができると、心からそう思える人は、どんな境遇にあっても「今ここで、すでに幸い」なのです。神が約束を果たしてくれるからです。神は幸いであると招いた人を決して見捨てないからです。この世の物では、私をすべて満たすことはできない。そう心から思えるようになったとき、私は神様が見ているように、「幸いと不幸」をこの世の生活の中に見いだしていくのではないでしょうか。
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‥‥次週は‥‥‥
年間第7主日
(ルカ6:27-38)
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