主日の福音04/2/1(No.107)
年間第4主日(ルカ4:21-30)
イエス様は誰に囲まれてもイエス様

今日のイエス様は、最初からつっけんどんです。つっけんどんというのは標準語ではないかも知れません。わざわざ郷里の人々を刺激するような印象を受けます。今この場で、イエス様は郷里の人々の輪の中にいますが、あくまでもご自分はすべての人にとっての中心であって、誰かと特別に親しくなったり、ひいきしたりはしないという態度を保とうとしておられます。

ですが、話を聞いている会衆は、そのようなイエス様の気持ちは理解できなかったようです。理解しようとしなかったのかも知れません。昔も今もあったのでしょう、「地元びいき」をイエス様に期待し、あくまで自分たちを喜ばせる人であって欲しいと願ったのでした。

話を簡単にすると、こういうことです。「よその土地であっと驚くことをしたのだから、郷里のここでは、もっともっともっと特別なことをしてくれて当然だ」ナザレの会堂に集まる会衆は、イエス様は自分たちの味方、いやそれ以上に、郷里の私たちにひいきするくらいで、ちょうどいい関係なんだと、思い込んだのです。

その思い込みは、今の社会の中で考えればこういうことかも知れません。郷里から選ばれた国会議員さんが、郷里のために橋を架けてくれたり、広い道路を通してくれたりするのは当たり前で、私たちが当選させてやったのだから、それくらいひいきしてくれて初めて、自分たちが選んだ国会議員さんとして認めてやってもいいよ、そういう感じでしょうか。

政治を例に引いて、ちょうど当てはまるのですから、ナザレに集まった人たちが期待していたことが、いかに世間的であったかが分かると思います。「この人はヨセフの子ではないか」という言い方は、「見ず知らずの人でもあるまいし、私たちの地元で生まれておいて私たちを喜ばせてくれないとは何事だ」と、自分たちの期待をイエス様に押しつけようとしていたのです。私たち郷里の英雄はこうあるべきだとイエス様に無理強いをして、会衆にとって都合の良い「場」にイエス様を引きずり込もうとしているわけです。

イエス様はそうした郷里の人々の魂胆を見抜いていました。魂胆がはっきりと見て取れたので、みずからその輪の中から出ていこうとされます。ナザレの会衆の期待する中心に留まることは、すべての人の中心に留まって、すべての人に影響を与え、すべての人の心を変えていくというイエス様のご計画に決してそぐわない。そう考えたのです。

「あなたたちのご機嫌取りはしない。正面から、神様を生活の中心に据えて暮らしたいと願っている人々のもとに、わたしは出かけます」そう宣言するイエス様の姿は、地元びいきを喜ぶ人々を激怒させ、イエス様を崖から突き落とそうとする、とんでもない行動にまで及ぶことになります。自分たちの都合に合わないこの人は、もはや救い主でも郷里のヒーローでもなく、目の前から消し去ってやりたい「敵」に変わってしまったのです。

私たちはどうでしょうか?イエス様が「このやり方で行きましょう」と仰ることを、そのまま「はい、そうしましょう」と賛成できるでしょうか。

なかなか、そこまでイエス様のお考えを知り尽くしてはいないのではないかと思います。イエス様はご自分が考えているときに手を差し延べ、働いてくださるのですが、それが私の考えでは「遅すぎる」と感じることがあるわけです。あなたの助けが遅れたから、私はあのことこのことを失ったではありませんか。あなたがもう少し早く来て下さったら、私は泣かずに済んでのではないのですか。そう言ってやりたいこともあるかも知れませんが、このような気持ちは、イエス様が「これが私の答えです」と考えておられることに意見して、「そういうやり方は間違いです」と言っていることになるのではないでしょうか。

きっと、イエス様のなさり方のほうに大切な意味があるに違いない。こういう気持ちにいつも向かっていけば、中心となる大切な意味はここにあるんだよと仰っているのを、もっとよく理解できるのではないかと思います。

どうして私だけ苦しいのか、どうして私は慰めてもらえないのか、どうして教会はああしろこうしろとうるさいのか。そういう思いはすべて、私の考えたことが世界の中心で、それ以外の結果を認めたくない気持ちの表れではないかと思うのです。

日々、いろんな事が目の前で起こります。目の前で起こっていることを認めようとしないとしたら、イエス様が示そうとする意味を探そうとしないなら、私たちはイエス様を憎んでいることになります。私の期待する答えじゃないじゃないか。そう言って、イエス様を取り囲む群衆の一人になってしまうのです。

イエス様は、理解しようとしない人々のあいだを通り抜けて行かれます。出来事の意味を考えるとき、イエス様を中心に置こうとしない人々のあいだを去って行かれます。ほかの町へ、イエス様を中心に据えて生きる人々のところへ、イエス様は出ていってしまいます。そうならないために、私がこれまで下してきた判断・決断は、イエス様の照らしや導きを大切にしたものだったか、十分考えてみましょう。

知らず知らずのうちに、イエス様を生活の中から追い出して、私が世界の中心になったような思いに陥ることのないよう、常に心を開いておきましょう。
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(ルカ5:1-11)
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