主日の福音04/01/25
年間第3主日(ルカ1:1-4,4,14-21)
「今日」を実現するためにイエス様と結ばれる

皆さんは捜し物をするときに、「何を探そうかなあ」と思って探したりはしないだろうと思います。あそこに置いたのだろうか、まさかここではないだろうと、あれこれ考えながら探すのだと思います。誰かから「捜し物は何ですか」と言われて、「さあ・・」というような人は、ちょっと診察してもらったほうがよいかも知れません

私自身の最近の話で言えば、「聖体祭儀は、宣教活動全体の源泉であり頂点である」(司祭の役務と生活に関する教令5)という教会の力強い宣言について、「第二バチカン公会議公文書のどこに書いてあったか」探すのにかなり手こずったことがありました。

「聖体祭儀(ミサ)は、宣教活動全体の源泉であり頂点である」言葉そのものは間違いはないのですが、裏付けがないと、尋ねられたときに困ります。それで確認のために探したわけですが、なかなか見つからずに閉口しました。

とは言っても、見つけだしたいものがはっきりしていたので、分厚い書物の中から探す場合でも、関係のある部分と、関係なさそうな部分は、おおざっぱに分けてどんどん進むことができたわけです。皆さんが捜し物をする場合でも、同じような作業は普通におこなっていることだと思います。

福音に入りましょう。イエス様が、会堂で聖書をお読みになりました。イザヤ書が手渡されたわけですが、イエス様はイザヤ書の巻物を手渡されて、何を探そうかなあ、何が見つかるかなあ、そう思って書物に目を通しておられただろうか、そんなことを思い描いてみました。

その答えとして、私は、イエス様が、イザヤ書が手渡された時点で、イザヤ書であればあの場所を見つけて解き明かそう、ご自分のことと重ね合わせて、はっきりとイザヤが言いたかったことを説明しよう、そんな考えがあったのではないかと思うようになりました。

イザヤがおぼろげにイエス様のことを頭に置いて預言した箇所を、みずからが朗読されて、この言葉は私について語ったもので、今日、この言葉は未来の預言という意味ではなく、今ここに実現した言葉として皆さんの前に読まれていますと、はっきり宣言なさろうと、イザヤ書をひもときながら、また声に出して読みながら、考えておられたのではないでしょうか。

ここでイザヤを通して預言された事柄は、次のようなことでした。「捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」。

自分の力で取り除くことのできない苦しみ、多くの人が手を貸すことのできないような悲しみ、すべてを取り除き、いやしてくださる。これが、今日実現した。イエス様が、この聖書の言葉をお読みになったことで、いつかやってくるはずの未来ではなく、今日この日にかなえられる喜びに変わったのです。

イエス様には、イザヤ書が手渡されたときに、会堂にいる皆の前で、どこを読むのがいちばんふさわしいか、十分に分かっていました。ここを読んであげよう、そう思っていたからこそ、読み上げるべき箇所がはっきり目に留まったのだと思います。

同じことが、イエス様と私たちのあいだで成り立つのではないでしょうか。それは、私たちが探しあぐねているものを、イエス様ははっきりと分かっておられるということです。悩み事でがんじがらめになっている、お先真っ暗で力を落としている、周りの人の視線が、期待が、自分にとって圧力に感じる。

そんなとき、どうしたらよいのと答えが見つからずに悩み苦しむのですが、それは、「何を探してよいか分からずに答えを探している人」そのままの姿なのではないでしょうか。表面的には、様々な問題を自分や周りの人で解決して暮らしているのですが、心の奥底の問題は、どう乗り越えたらよいのか分からすに、どこへ助けを求めてよいか分からずに、悩み苦しんでいるのです。

イエス様は、私が今日、何を悩み、何に苦しんでおられるか、十分に分かってくださいます。私という巻物の、どこを読めば答えが見つかるのかご存知です。イエス様に今日を委ねて生きるようにすれば、どこを探してよいかすら分からなかった問題の答えを、イエス様は指し示してくださるのではないでしょうか。

イエス様に信頼を寄せて、心を打ち明けて日々を過ごすとき、「今日、実現した」「今日、解決した」そんな力強い言葉を私たちは聞くのです。今日という日を完全に実現するのは私の力ではなく、イエス様なのです。これからの日々を、一日一日本当の意味で実現していくために、さらに深い信頼をイエス様に寄せる。そのために、続けてこのミサの中で祈ってまいりましょう。
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‥‥次週は‥‥
年間第4主日
(ルカ4:21-30)
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