主日の福音04/01/18
年間第2主日(ヨハネ2:1-11)
あなたの生活に復活のキリストが共に

年間の季節が始まりました。先週の日曜日まで、イエス様の誕生に連なる一連の出来事を祝ってきたわけですが、今日の日曜日からはしばらく年間という季節に入っていきます。

いちおう、イエス様の誕生からの一連の祝日についておさらいをしておきましょう。クリスマスの直後には、聖家族をお祝いしました。年が改まって神の母聖マリアの大祝日でした。続く日曜日には三人の博士の訪問・礼拝を思い起こす主の公現、そして主の洗礼の祝日と、一連の祝日はイエス様の幼年物語から公の前に現れるまでのことを駆け足で振り返る祝日でした。

これら一連の祝日を終えると、イエス様の誕生にまつわる話は一区切りです。これからは、イエス様の公の生活、公生活について日曜日を追うごとにたどっていくことになります。これから数週間は、この年間の季節を過ごすわけです。

今日の朗読では、ヨハネ福音書が読まれました。イエス様とマリア様が婚礼の席に招かれて、その中で水をぶどう酒に変えるというしるしが行われています。ヨハネは、今日の出来事が三日目に行われたこと、また水をぶどう酒に変える不思議を「しるし」それも「最初のしるし」として書き残しました。これらの点に注目して、朗読を味わってみることにしましょう。

過ぎた降誕の季節との関わりから話を始めたいのですが、ヨハネという人は、福音書の中にイエス様の誕生の話を直接には書き残しませんでした。ほかの著者は、イエス様が生まれて駆らなくなって復活するまでを描こうとするわけですが、ヨハネは復活したキリスト、誕生してから復活するまでのキリストではなくて、復活したキリストを描きたかったということです。

そのことがよく表れているのは、今日のお話の最初、三日目にという書き出しです。イエス様にとって三日目という言葉が大切な意味を持つのは、「復活との関わりの中で」です。イエス様は三日目に復活されたからです。三日目にという場合は、復活したキリストとの結びつきを暗に示したいわけです。

さて、三日目に起こった出来事だったというのですから、まずはイエス様の復活についても思い起こしておく必要があるでしょう。ヨハネはイエス様が亡くなってから三日目の出来事として、マグダラのマリアとその他の女性たちが、遺体のお世話をしに墓へ行ったこと、その同じ日弟子たちはユダヤ人たちを恐れて家の戸に鍵を閉めて潜んでいたことを記しています。つまり、なんの希望もなく、希望を奪われた人の振る舞いしかできなかったということです。

そこへ、イエス様が現れ、「平和があるように」と仰ってくださいました。あるいは婦人たちに神の使いが現れ、イエスの復活が知らされました。まったく希望のないところに、イエス様が希望を届けてくださった、生きておられるときと同じすばらしい体験を、亡くなって三日目にプレゼントしてくださったのでした。

その、同じ体験が、最初のしるしの時から変わらず続いているのです。ぶどう酒がなくなった。招待した側にとっては、招待客をがっかりさせる出来事です。このせっぱ詰まった場面をうち破ることは誰にもできそうにありません。マリア様は、希望のない時に誰に希望を置くか、示してくださいました。希望のないところでただ一人頼れる方は、イエス様なのです。

イエス様は、表向きはマリア様の願いを退けているように見えますが、こうすることでマリア様も「希望のない状況」を経験することになったのでしょう。母の願いに、答えてくれないのだろうか。マリア様にとっても、希望のないところで希望を持ち続けるきっかけになったのだと思います。

イエス様は、水がめにいっぱい満たした水をぶどう酒に変えてくださいました。それは言い換えると、希望のないところに希望をもたらす業をおこなってくださったのです。こうして、イエス様はその生活の初めから、希望のないところに希望をもたらしてくださったとヨハネは言いたいわけです。

イエス様の言葉と行いは、その始めから終わりまで、復活の喜びと繋がっていました。イエス様の物語はこれから始まります。私たちも、今年一年の新たな歩みを始めています。

イエス様が私たちの信仰生活の中で、いっしょに歩き、希望がないと思えるときに希望を届けてくださるのだと、福音からの学びを得ることにしましょう。その活動の初めから困難なときの唯一の助け手となってくださるイエス様に、今週一週間を委ねることにしましょう。
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‥‥次週は‥‥‥
年間第3主日
(ルカ1:1-4,4,14-21)
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