主日の福音04/1/11(No.104)
主の洗礼(ルカ3:15-16,21-22)
神様と一本筋の通った生活を

寝ても覚めても同じことを考えている人は、誰もが気付かない発見をしたり、誰にも解けなかった謎が解けたりするのだと思います。物はなぜ下に落ちるのか?太陽はなぜ東から昇って西に沈むのか?同じことをすべての人が目にしましたが、ずっと考え続ける人だけが、万有引力の法則を発見し、太陽系のつながりを悟ります。

学問についてだけでなく、信仰の面でも、同じことを当てはめることができます。私はなぜこんな試練を受けるのか、神様は私をずっと見守っておられるのだろうか。寝ても覚めてもこうしたことを考え続ける人には、神様はきっと答えをくださるに違いありません。

これから、一人の司教様を例にひいて話したいと思います。この司教様は、私が考えるに、信仰の面で一つの境地にたどり着いた司教様だったと思います。この司教様の説教の中では、つねに、と言っていいと思いますが、十字架につけられたイエス様のことが話に出てきました。

十字架につけられたイエス様の姿と言いましたが、もう少し説明すると、十字架には縦の線と横の線があって、私たちは洗礼を通してキリストと共に十字架につけられているのであり、キリストと共に十字架につけられているなら、十字架の縦の線によって「天と地・神と人間」が結びつけられ、十字架の横の線によって弱さを持った人間同士がともに結び合わされている、そういう説明だったと思います。

今になって考えると、あの司教様は、この世界に見えないものを見ていたのだと思います。この世界が、イエス・キリストとどのように結び合わされるべきか、一人ひとりが神様にどう結ばれるべきかが、見えていたのです。

どのように見えていたか。それは、十字架の縦の線のように、人間の社会生活はいつも神様に向かって一本の筋が通っていなければならない。また、教区民同士、また社会生活で関わる人すべてと、互いに愛し合う、互いに許し合うという横の線で結ばれていなければならない、だから十字架の縦と横の線を説き続ける。そんな思いだったのだろうと思います。

もちろんこうしたことは、今になって思えば、ということで、その司教様が引退する前に、私たちに見えないものがあの司教様には見えていたのだと気が付いていれば良かったのですが、そこまでたどり着くことはできませんでした。

福音に入りましょう。今日、イエス様は洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになります。洗礼者ヨハネもまた、この世界が父なる神と絆を結んで生きるべきことがはっきり見えていた人でした。人々を神に向かわせ、神とのつながりをきちんとつけさせるために、荒れ野で時には厳しい言葉を発し、時には具体的な勧めを与えて、自分に見えている神との正しい関わりにすべての人を招こうとされたのでした。

そこへ、イエス様がやって来て、ヨハネから洗礼をお受けになります。洗礼を受ける前から、イエス様は人間が神様の前にあるべき姿を完全に理解していましたし、それを完全に身につけていたのでした。

そのイエス様が洗礼を終えると、聖霊が見える形でイエス様の上にとどまりました。これは、神と人間との結びつきがイエス様の中で完全に結び合わされていることの見えるしるしでした。

イエス様の洗礼は、悔い改めるためのものではありません。お手本を私たちに教えてくださるためでした。人間は神様との一本筋の通った絆を持たなければならない、神様と人間とのまっすぐな絆が、生活のすべてに、生き方のあらゆるところに行き渡るようにしなさいとのお手本だったのです。

それは、私なりに言い直すと、「信仰の物差しが見える人になりなさい」ということです。都合の悪いところでは神様を横に置いてというあいまいな態度を取らず、一つひとつの場で神様との一本筋の通った態度を選ぶこと。この繰り返しで、私たちは自分の生活の中に見えない「信仰の物差し」を見ることができるようになるのではないでしょうか。

洗礼者ヨハネのように、はっきりと神様との絆・信仰の物差しが見える生活を維持することは困難かも知れません。イエス様のように、神様と人間との絆を完全に保つことはできないでしょう。

でも、信仰の物差しがまったく見えない生活、私が何かを決め、何かを行うときに、神様がどう思おうと関係ないという態度を取るのと、ときどき物差しが狂っても、信仰の物差しを離れずに生活を積み重ねていくのとは明らかに違います。

ずっと考え続け、追い求め続けるとき、私たちには見えないものが見えるようになります。イエス様の洗礼のお手本を通して、私の生活に、見えない信仰の物差しが見えるように、感じることができるように、一日一日を大切に生きていくことにいたしましょう。
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‥‥次週は‥‥‥
年間第2主日
(ヨハネ2:1-11)
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