主日の福音04/1/4(No.103)
主の公現(マタイ2:1-12)
学を得るごとにさらに神に近づく者

主の公現を迎えました。馬小屋には占星術の学者たちが飾り付けられて、東の国の人々からも礼拝される方となった、公の場に現れたことになります。学者がイエス様を拝みに来たということですから、「知恵と知識を、イエス様への礼拝に向ける」ことについて、少し考えてみたいと思います。

どんな学問を究めた人であれ、その人には威厳とか、自尊心があるものです。当時の占星術の分野で、学者と呼ばれる人たちが、イエス様を拝みにはるばるやってきました。学問を究めた人たちが、すすんで跪く、自分たちの名誉心をなげうって礼拝するというのですから、自分たちの究めた学問もかすんでしまうほどすばらしいものを見つけたのに違いありません。

星占いという学問が、実際どのような学問か知りませんが、占うというのですから、吉とか凶とか、そういったことを人々に教える専門家であったのではないでしょうか。ただし今回は、占うことそっちのけで拝みたいと思うほどの喜びが、星によって知らされたと感じたのでしょう。

占星術の学者たちは、自分たちが専門としている星のしるしから、王が生まれたこと、それも、救い主としての王がお生まれになったことを読みとりました。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」。学者たちは、「吉」の知らせをヘロデとユダヤの民に告げたのでした。

ところが、聞いたヘロデ王やエルサレムの民は、不安になります。ひとつの知識を得たことが、自分の中で混乱を引き起こしました。学者たちは導き出された知識から救い主に心を開くことにしましたが、ユダヤの人々は心を閉ざしたのでした。

ヘロデは知識を得たのに恐れます。ヘロデにとっては預言者たちが書き残している「指導者」「イスラエルの牧者」が自分に対立する者、自分の地位を脅かすものとして映ったので、命を狙おうと動き始めます。

対照的に、占星術の学者たちは、ユダヤの王の誕生を知らせる星が現れ、日本で言う「吉報」「吉兆」にまず自分たちがあやかろうと思って来てみたら、その方は聖書の中で「指導者」「イスラエルの牧者」と書き記されていることを聞いたとき、ますます礼拝に値する方だと確信を深めていきます。

「指導者」「牧者」という響きは、少なくとも、ローマの支配に虐げられ、ヘロデ王の圧政に苦しんでいた当時の人々にとっては、希望を持たせる響きだったのではないかと思います。当時この世の王であったヘロデは「権力者」ではありましたが、「良き指導者」「良き牧者」ではなかったのです。人々は解放者を、羊を導く者を、良き牧者を必要としていたからです。

知識がどれだけ増えても心を閉ざしていくヘロデと、導き出された知識から救い主の礼拝へと心を向けた学者たち、どちらをわたしたちは見習うべきでしょうか。これが今日の私たちへの問いかけだと思います。

自分の得た知識・身に付いた才能が、神様を賛美する方向に向かっていくとき、わたしたちは神の前に正しく生きていると言えます。知識を得、才能を開花させたのにそれによって神様からだんだん遠ざかっているとしたら、その生き方はどこかが間違っていると思います。

学者たちは黄金・乳香・没薬をささげます。この三つは、まことの王であり、香の煙を届けるにふさわしい神であり、最後には丁重に埋葬するに値する方であることを表すささげものと言われたりしますが、たとえば、身に付いた知識・才能で得た報酬と考えても良いと思います。学者たちは、自分たちの星占いの知識で財産を手に入れましたが、その中のいくらかを(全部であったか、一部であったか分かりませんが)感謝のしるしとしてささげたと考えてもよいのではないでしょうか。

技を極める、学問を究める、それらによって名声や富を得る。どれもすばらしいことです。そうしたことが、ぜひ神様に心を開くひとつのきっかけであって欲しいと思います。すべての人の光として公の前にイエス様が現れた日ですから、一つ賢くなるごとに、一つ神様をたたえる者となって、より多くの人にイエス様を告げ知らせる者となれるように、知恵を願いましょう。
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‥‥次週は‥‥‥
主の洗礼
(ルカ3:15-16,21-22)
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