主日の福音03/12/28
聖家族(ルカ2:41-52)
神様とのつながりを考える家族

年内の日曜日は、今週で最後となりました。一年を通して日曜の礼拝に参加しながら、皆さんの生活には何か変化が現れたでしょうか。あるいは、日曜日に礼拝をささげるこの生活のリズムは、あまり変化をもたらすこともなかったでしょうか。

もし、日曜の礼拝が生活に変化をもたらしたとすれば、まず最初に変化が現れる場所は、家族・家庭、ではないでしょうか。ミサにあずかったことや、あるいは聖書の朗読を聞いたり説教を聞いたりしたことをいちばん身近に思い返す場所は、生活のいちばん身近な場所、家庭・家族ということになると思います。生活時間の中で、家庭よりも会社のほうが居場所があるという人は別ですが。

今日の日曜日は、「聖家族」という名前の付いた日曜日になっています。ちょうど、信仰の歩みと、家庭での生活がうまくかみ合っていたかどうかを考えるのに、ふさわしい日曜日ではないかなあと思います。あわせて、一年の締めくくりの日曜日でもありますし、朗読された福音書の中から、あらためて家庭を振り返るヒントを頂くことにしましょう。

聖家族から私たち家族が何かを学んで歩き続ける、そのいちばんのポイントは、できごとを神様の働きと結びつけて考えてみる、ここにあると思います。今日の福音から考えると、マリア様が十二歳の少年イエス様の言葉を神様の働きに結びつけようとしたことがこれに当たります。

ルカが、どのような方法でイエス様の十二歳のときのことを聞き出したのか、かなり興味がありますが、まあそれは横に置いておくとして、イエス様のとった行動、また両親に返してきた言葉は、神様の働きと結びつけてでなければ、とても理解できないものでした。実際両親は、イエスの言葉の意味が分からなかったのです。それは、「普通では理解できない」ということであり、神様との関わりで何か意味を持つに違いないとは思っていたわけです。

イエス様の様子を少し注意して見てみましょう。イエス様には大人が考えるような「気配り」は確かになかったかも知れません。「両親とはぐれて三日も過ぎているから、きっと心配しているだろうなあ」そんな配慮は確かに見られませんが、少年にしばしば見られる「熱中する姿」「思い立ったことをぱっと実行に移す行動力」は十分に見て取れます。

両親を代表してマリア様が「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです」と仰るのはもっともな話で、少年時代にありがちな様子がよく表れていると思います。

けれども聖家族のすばらしさはこのあとにあると思うのです。イエス様がさらに驚くような言葉を返し、両親はその言葉に困惑したのですが、「母はこれらのことをすべて心に納めていた」のでした。

自分の子が言ったことばですから、両親の理解できる範囲で出来事を片づけても良かったはずです。「何を変なことを言っているんですか」そんな形で片づけて、当時の記憶も忘れてしまうこともあり得たと思います。けれども、マリア様は心の中に納めて、その意味が神様によって説き明かされるまで忘れずにいたのです。

忘れていたなら、当時の様子はルカには伝わらなかったでしょう。ここでイエス様が神の子であることを伝えようとしたのだ、父なる神と片時も離れずにいることを伝えようとしたのだとマリア様が理解できずに終わっていたら、今日の話は聖書に残らなかったはずです。けれども、マリア様の賢明な態度のおかげで、できごとが今日まで伝えられることになりました。

実際私たちも、ちょっとしたところで神様の不思議な働きを感じることはあるものです。あまりたいした例ではないのですが、私は幼い頃小学校の前を流れる川で遊んでいて、うっかり割れたガラス瓶に足を乗せて、大きな怪我をしたことがありました。

その時知らないお母さんが自分の泣いているのを見つけてくれて、包帯をして家に運んでもらった覚えがあります。発見が遅れたら、おそらく一大事だったことでしょう。けれども神様は、私の人生の中で確かに働いてくださったわけです。できごとを神様の働きと結びつけて考えようとするときに、そのできごとの本来の意味を見つけだすことができるのではないでしょうか。

少年が、理解できない行動をとる、わが子が、理解に苦しむことを言ったりしたりして悩ませる。おそらくそれは、自分の理解できる範囲で答えをすべて出そうとするから、重荷になっているのではないでしょうか。神様が何かお考えで、その子に思いもつかないことをさせているとしたら、神様はきっとその意味を説き明かしてくださると思います。

問題は、神様はこの子に何をさせようとしているのだろう、この子を通して私たちに何を考えさせようとしているのだろうと、私たちが神様との関わりで考え始めることだと思います。その用意ができれば、神様はしかるべき時に、時を逃さず、その意味を教えてくださると思います。

マリア様は、自分たち家族のことを神様のご計画があるに違いないと思いながら日々を過ごしました。私たちも今年一年がそうなっていたかを振り返りましょう。また、次の一年が、神様の考えていることは何だろうと思いながら家庭の中のできごとを見つめる者となれるように、知恵を願うことに致しましょう。
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‥‥次週は‥‥‥
神の母聖マリア
(マルコ7:31-37)
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