主日の福音03/12/24
主の降誕(夜半)(ルカ2:1-14)
わたしは、あなたを活かすために来ました
みなさんクリスマスおめでとうございます。今年は、太田尾教会・間瀬教会ともに洗礼の恵みにあずかる方がいらっしゃいますので、私たちにとって二重の喜びです。洗礼を受けるために、毎週の勉強会に続けて参加してくださいました。まだとまどうこともいろいろあるかと思いますが、幼子としておいでくださったイエス様のように、これから、信仰の恵みを日々成長させていく、そんなつもりで今日の洗礼式に臨んでいただければ、と思います。
そこで今日は、幼子イエス様が私たちのために生まれた意味を考えてみることにしましょう。それは同時に、私たちがこの世に生まれた意味を考えることでもあり、また、小さいお子さんがいらっしゃる家庭では、この子が私たちの家庭に生まれた意味、この世に生れ落ちた意味について考えることにもつながると思います。
いろんな意味を見つけることが出来ると思います。宿屋に泊まる場所がなかったことは、社会から見捨てられた人にとっても希望となってくださったことを考えさせますし、羊飼いがイエス様を拝みに来たことは、あらゆる職種、あらゆる身分の人に救いを届けに来てくださったことを思い起こさせます。いろいろある中で、私が今年のクリスマスのメッセージとして取り上げたいのは、「人間を活かすためにおいでになったキリスト」という姿です。
じつは今年のクリスマスの説教、非常に珍しいことですが、二週間ほど前に出来上がりました。そのころに、ある思いが湧いてきまして、どうしてもそれをクリスマスにという気持があって、考えが変わらないうちにと思ってまとめたのです。
きっかけはこういうことでした。不思議な出会いの話を聞きまして、私はその話を聞かせてくれた方に、それはきっと、人間の力ではなくて、神様が引き合わせてくださったものですよと言いました。偶然などでは説明できないとすれば、やはりそこに神様の働きを考えてよいのではないでしょうか。この、神様の不思議な働きをはっきり示すために、イエス様は人間となって、この世に生まれてきたわけです。
先に私は、「キリストは、人間を生かすためにおいでになった」と言いましたが、ここでの「活かす」は、生き死にの「生きる」ではなくて、「活動」「活躍」の「活かす」ということです。私を、ほんとうに活躍させてくれるのはイエス様、私の良いところを引き出して、みんなのお役に立てるようにしてくださるのはイエス様なのです。父である神は、人間をほんとうの意味で「活かしてくださる」ために、ご自分の独り子をこの世にお遣わしになったのです。
お生まれになったイエスさまは、これから不思議な運命をくぐり、成長して多くの力ある業を行ない、多くの人を慰め、励ます言葉を語ることになります。会堂長の一人娘を生き返らせ、またやもめの一人息子を生き返らせ、十八年間病に苦しむ女性を治し、三十八年間寝たきりの病人を立ち上がらせ、生まれつき目の見えない人に視力の回復をもたらしました。いずれの場合も、もはやこの世では見捨てられるしかなかった人びとを、イエス様は活かしてくださり、これから新しく生きていくことが出来るようにしてくださったのです。
あるときは、罪深い女と人々の冷たい視線を浴びていた女性を公の面前で赦してくださり、社会で立ち直って生きていけるようにしてくださいました。掟に縛られて身動きできなくなっていた当時の考え方を改めさせ、「第一の掟は神を愛すること、第二の掟は隣人を自分のように愛すること、これに尽きる」と仰って、さまざまな掟の鎖をといてくださいます。
またご自分の弟子を選び、ご自分の働きを見せて、人を活かすという生き方に目覚めさせてくださいました。イエス様の働き、どれをとってもそこには「人を活かす」という思いが込められていましたし、「あなたは私にとってかけがえのない人ですよ」というメッセージが込められていたのでした。
今、私たちが目にしている姿は、小さな小さな幼子の姿です。ですが私たちのこれまでの経験は、この幼子は私たちを活かすために来てくださったことを教えてくれます。私は、もしかしたら誰のお役にも立っていないと感じている人がいるかもしれません。イエス様は当時、社会でのけ者にされている多くの人に近づいて、その人を活かしてくださいました。そのイエス様が、今ここにおられるのです。かつて出会ったすべての人を活かしてくださったのですから、今私たちを活かしてくださることに何も疑う余地はないと思います。
今日神様は、一組の親子に、また一人の成人女性に、神の子となる洗礼の恵みを授けてくださいます。今日を迎えるまでに、じつは多くの人が関わってくださり、支えてもらってきました。関わってくださったすべての人は、直接間接に神様に活かされて、洗礼を望んでおられる方に働きかけてくださったのだと思います。
今日、洗礼を受けるということは、この幼子イエス様が、これからあなたを神の子として活かしてくださり、これまで関わってくださった方々のように、いつかは自分が誰かに関わって、人を活かしてくださる神様に触れる手助けをする者となる、そんな意味合いもあると考えています。
今は幼子の姿ですが、このイエス様が今日洗礼を受ける方々を恵みで満たし、活かしてくださいます。今日参列している皆さんも、すべての人を活かすためにおいでになったイエス様を心に納めて、今日喜びのうちに一日を終わることにしましょう。すべての人を活かしてくださるために、たとえ何もできないと思っている人であっても活かしてくださるためにおいでくださったイエス様を、このミサの中で力強くたたえることにいたしましょう。
洗礼式と、それに続く堅信式に移りたいと思います。
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主の降誕(早朝)
(ルカ2:15-20)
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