主日の福音03/12/21
待降節第4主日(ルカ1:39-45)
神様は私たち人間世界に挨拶に来てくださった

今日、日曜日の福音朗読は「挨拶(あいさつ)」が物語全体を説き明かす鍵かな、と思っています。イエス様の誕生を間近に控えた今日の待降節第四主日に、挨拶が運ぶ深い喜びについてしばらく考えることにいたしましょう。

挨拶は、私たちが普段の生活でいちばん頻繁に交わされるやりとりです。最近は電話、その他の便利なものが発達して挨拶も手軽になってきていると思うのですが、それでも遠い方からの葉書とか手紙、どうかするとびっくりさせようと思ってわざわざ出向いて挨拶に来てくださるということもあります。都合をやりくりして、または横に置いて、挨拶に来てくださったときは、心が動かされ、深い喜びがあるのではないでしょうか。

同じことが、福音書の中で語られました。ヨハネを宿した親戚のエリザベトに挨拶をするため、マリアは急いで旅立ちました。じつはマリアは、救い主を宿したことを天使の挨拶で知らされたばかりでした。この喜びを携えて、エリザベトのもとへと急ぎます。

マリアの心には、神様が天使を通して挨拶に来てくださったことが大きな喜びとなっていたに違いありません。神様は、私たち人間をつねに心に掛けておられ、見守っておられる。そしてとうとう私たちのところに来て、挨拶を交わし、救い主を送ってくださった。今の時代であれば電話で済ませることができた挨拶かもしれませんが、それを、じかに出向いてきてくださって、挨拶を交わしてくださった。神様が何よりも私たち人間を心に掛けてくださっている確かなしるしを、イエス様の誕生に協力したマリア様は読みとったのではないでしょうか。

この大きな喜びを、親戚のエリザベトと分け合うために、いっしょに喜び合うために、マリアは旅立ったのでした。親戚はほかにもいたかも知れません。ですがあえてエリザベトのところに出向いたことを考えると、神様が挨拶に来てくださった喜びを、いちばん良く理解してくれる人の所に行った、そう考えることができるのではないでしょうか。

皆さんも経験あるかと思いますが、嬉しいことがあったとき、わたしたちは「自分にとって嬉しいことを、良く理解してくれる人」に、まずは話してみるのではないでしょうか。また、悲しいことがあったときには、自分の悲しみを良く理解してくれる人に、まずはうち明けるのではないでしょうか。見ず知らずの人に自分の心の内を話すときは、たいへん困り果てたとき、いよいよ誰にも理解してもらえなかったときに限られると思うのです。

マリアも、神様が人間に与えてくださった喜びをまず誰に話そうかと思ったときに、エリザベトしかいないと思ったのだと思います。神が、天使を通して私に語りかけてくださった。神が私たち人間に、驚くべき、力ある業をおこなってくださった。この喜びを分かち合える人は、やはり同じ思いを抱いて今を過ごしているエリザベトしかいなかったのではないでしょうか。

私たちも、イエス様の誕生を喜び合う日が、すぐそこまで来ています。そして喜ばしいことに、クリスマスの夜半のミサでは、それぞれの教会で洗礼式が予定されています。私たちにとっての喜びが、新しく招かれた方にも広がっていくのです。新たに信仰に招かれて、私も、神様がこの世界に来てくださったことをいっしょに喜びたい、人間の救いのために神様が動き始めてくださったことを信じてみたい、そんな方が増えるのですから、今年のクリスマスはとても喜ばしい一日と言えるのではないでしょうか。

神様は天使を通して、みずからこの世界に挨拶をしに来てくださいました。みずから挨拶に来てくださり、私たちの住む世界でいっしょに過ごしてくださり、困難や、無理解や、あるいは迫害といった、大きな試練もいっしょに体験されて、あなたの置かれている暮らしを、私もいっしょに分け合います。あなたの喜びと悲しみを、いっしょに分け合いますと、挨拶に来てくださったわけです。

挨拶、それも、出かけていって挨拶することの中に、ほかのものでは代えられない大きな喜びがあることを学びました。同じ日曜日、災害に遭われた方に義援金を届けるために、わたしたちは街頭募金に立ちます。あなたの暮らしを、私も心にかけています。その思いをささやかであってもカトリック教会の一致した働きで届けることができるまたとないチャンスです。福音の学びを実行するためにも、一人ひとり何かの形で動いてみることにしましょう。
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‥‥明日は‥‥‥
主の降誕(夜半)
(ルカ1:39-45)
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