主日の福音03/12/14
待降節第3主日(ルカ3:10-18)
ほんと、どうすればよいのでしょう?

同じ言葉を発していても、人それぞれ思っているところは違うのかも知れませんが、今日の福音朗読で三度同じ言い回しで洗礼者ヨハネに尋ねています。「わたしたちはどうすればよいのですか」。クリスマスの準備を急ぐためにも、今日はこの言葉からヒントを得ることにいたしましょう。

「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」。この言葉を聞くと、ほんとにどうすればいいんだろうと頭を悩ませた時代のことをやはり思い出します。まだ司祭になりたてのとき、どうも私は先輩の目からはできが悪かったようで、初めのうちは何度も「もうよか」と言われたことがありました。

今になって思うのですが、新米のときにはどんなことでも上手にできないのは当たり前のことですから、下手は下手なりにやってみればよかったのかも知れません。やり方がまずかったり、順番に無理があったりすれば、主任神父様方はどうしても口出ししたくなって、「そうじゃなかろうが。ここはこうやろが」と、文句言いながらもまんざらでもないという様子で教えてくださるのだと思うのです。私にはその、ダメでもやってみようという気持ちが足りなかったのだと思います。

途中で私もその辺のことに気が付きまして、どうしてあの助任神父様はいろいろ手ほどきを受けるのに、自分はそうはならないのだろうか、どこが違うのだろうか、どうすれば自分もあれこれ世話を焼いてもらえるのだろうか、当時与えられていた第三助任司祭の一室で、半分なきべそかきながら考えたものです。

そのうちに、失敗を恐れて初めから手を引っ込めるので「それならもう教える必要はない」となるのだと分かりまして、それ以後はアプローチのしかたを変えました。何か計画を進めるときにも「自分はこうしようと思っているんですが」とか、「この前のことはこうしてみたのですが」と言えるようになったわけです。

そうすると、「いいものはいい、悪いものは悪い」がはっきりしている主任神父様でしたので、それからはひとことひとことが手取り足取り教えてもらっているような感じがしました。

こうしてたくさん教えていただいた時期を振り返ると、ある時点で自分の取り組みが変わって、そのことがきっかけでどんどん吸収できるようになったことがよく分かります。何が自分にとって成長のきっかけになったか、ひとことで言うとそれは「わたしはどうすればよいのですか」と考えるようになった、ということだと思います。

洗礼者ヨハネのもとにやってきた「群衆」「徴税人」「兵士」たちは、真剣に「わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねました。彼らは「いったい私たちに何をさせたいのですか」という意味でそう尋ねたのではないと思います。もしそうだとしたら、私が洗礼者ヨハネだったとしたら、「あなたがしなければならないことを、私が知るはずないでしょ。自分で勝手に考えれば?」と突っぱねたかも知れません。

そうではなく、彼らは心の底から、洗礼者ヨハネの説く悔い改めを自分の生活の上に実らせたかったのではないでしょうか。あなたが説く「悔い改め」をやり遂げるために、どんな業をしなければいけないのですか、四十日間飲まず食わずに断食することですか、持ち物を全部売り払って貧しい人に施すことですか、何をすればよいのでしょうかと、心を準備して自分の果たすべきことを尋ねてきたのだと思います。

洗礼者ヨハネの答えはむしろ拍子抜けするような答えでした。あなたが普通にできることの中に、悔い改めはあるのですよと、洗礼者ヨハネは具体例を挙げて証明して見せたのでした。下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ、規定以上のものは取り立てるな、だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ。何も驚くようなことではありません。悔い改めるからと言って、風呂敷を広げて大騒ぎする必要はないのです。

ヨハネはどうしてこんなありふれたことを勧めたのか、不思議でさえあります。考えるに、「わたしたちはどうすればよいのでしょうか」と声を上げたこと自体が、もうすでに悔い改めの明らかなしるしだったのかも知れません。「どうすればいいのだろう」と口にするまでに、自分の生活に改めるべき点があることをいくらか感じ、あと一声あれば、実際に生活を改めていける、そこまでの準備が、ヨハネのもとへ尋ねた群衆には芽生えていたのだと思います。

当時の権力者や、宗教権威者は、ヨハネの説く悔い改めを聞こうとしませんでした。「どうすればよいのだろうか」どころか、「どうもしない」「改めるべきことは何もない」、それはたとえて言えば、自分は普通に暮らしているから、罪なんてないといった態度の人ですが、そういう人は、ヨハネのところへ行くことすらしなかったのです。そして彼らは、ついに生活を改めることなく、来るべき救い主の敵対者となり、ヨハネの洗礼はおろか、聖霊と火によるイエス様の洗礼にあずかれなかったのでした。

私たちも同じ問いかけがされていると思います。「何もしなくてもクリスマスはやってくるさ」と考える人には、今年のクリスマスはほとんど年中行事くらいの意味しかないことでしょう。ですが、「どうやったら、今年のクリスマスを喜び迎えることができるだろうか」と考える人には、生活を改めるヒントや、あの人のためにお祈りしながら、今年のクリスマスを待ちましょうといった積極的な態度を教え導いてもらえるに違いありません。

「わたしたちはどのようにすればよいのでしょうか」。何か、今年のクリスマスをよりよく記念するとっかかりが一人ひとりにあるはずです。聖霊が、私たち一人ひとりを照らし、今年はこんな準備でクリスマスを迎えたねと思い出せるように、ミサの中で願うことにいたしましょう。
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‥‥次週は‥‥‥
待降節第4主日
(ルカ1:39-45)
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