主日の福音03/11/16
年間第33主日(マルコ13:24-32)
御父だけが知っている「世の終わり・救い」

福岡の神学院に在籍していた時代に、生徒に配ったプリントの隅から隅まで、それこそ重箱の隅をつつくようなことまで授業中に説明する教授がおられました。私も下級生の頃は、それこそ必死にノートを取って、どんなに眠くても居眠りせずに授業にあずかっていましたが、よく考えると、その教授はプリントの隅から隅まで説明するわけですから、教授が説明することはプリントを隅から隅まで読めば分かることに気が付いたわけです。

そのうちに、「あとでプリント読めば済むことだよなあ」と思うようになりまして、最上級生になる頃には授業中に居眠りしたりして、「中田さん!!眠っています!今大切なことを話しているんです!」と叱られるようなこともありました。

振り返ってみて、あの教授はすべてを教えますという構えで授業を展開していたわけですが、果たして一人の教授が神様のご計画すべてを知ることができて、またその知識を生徒にすべて教えることなどできるのかいな、という疑問がわいてきます。熱意は分かります、居眠りした私が悪うございました。ですが、全部教えてあげますというのは、それはどうでしょう?といった思いが、今でも残るのでした。

今日、イエス様は「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである」と仰います。人間がすべてを知りうるわけではない、このことを受け入れるかどうかで、日々の暮らしや、信仰心は大きく変わってくるのではないかなあ、と思います。今日の福音から、結論としてそのような思いにたどり着いたわけです。

「人間は、すべてを知りうるわけではない」ということを考えるための材料はたくさんあります。この世の中に、どうして?と理由が分からない事件が起こったりします。説明できないような悪の存在は、人間がすべてを知りうるわけではないことの何よりのしるしではないでしょうか。ほかにも、いまだに治せない病気や、自分の置かれた理解に苦しむ状況など、いろいろ挙げることができるわけです。

仮に、このようなことから考えて人間がすべてを知り得ないとしたら、その事実をどう受け止めたらよいのでしょうか?それら分からない出来事は、必ずすべて分かるようになると、考えた方がよいのでしょうか。それとも、ほかの考え方がふさわしいのでしょうか。

私は、「いつか解決できる」「いつかすべてを解明できる」とは思っておりません。すべてが人間の手に届くようになるとは思えないのです。すべてのものが人間の手によって作られたものであれば、いつかすべてのことが分かるのかも知れません。ですが明らかに、人間がこの世界のすべてを造ったわけではないのです。

むしろ、神がこの世界のすべてを造られたのだから、人間が知り得ないことについても、神様はすべてをご存知で、すべてのことに心を向けておられると考えたほうがよいのではないでしょうか。

そう考えると、私たちがすべてを知り得なくても、次のようなことに心が向くようになります。「私たちはすべてを知ることはできないけれども、神様はすべてを知っておられる」「神様がすべてを知っておられるのであれば、私の理解の及ばないことは、神様の計画に委ねましょう」ここまで思い至ると、私たちは一つの安心を手に入れることができるのです。

教会の暦で、11月は一年の終わりであり、人間の終わりについて、この世界の終わりについて思いを馳せる月だと今月初めに話しました。今日の福音朗読も、この世界の終わり「終末」について考えさせる箇所が朗読されました。当時の人々が理解できない出来事、「太陽が暗くなる」「月が光を放たなくなる」「星が落ち」「天体が揺り動かされる」、このようなまったく理解の及ばないことが起こったとき、恐れず、むしろ神への信頼を強くしなさいと招いてくださいます。

自分にとって理解しがたい事が起こったとき、理解できないことが恐れや不安を引き起こすのは、「人間に理解できないことは何もないはずだ」と勘違いしているからではないでしょうか。思い通りにならないことが許せない、受け入れられないので、恐れたり不安になったりするのでしょう。

むしろ、私たちはもう一度考え直すべきです。すべての努力を払ったのに、どうして解決できないのだろうかと思い悩むのではなくて、すべての努力を払って思い通りにならなければ、その先のことは神様に委ねる。そこに私の思いを向けるようにすべきだと思うのです。もう何もすることがなくなった、その時目の前が真っ暗になったと思うのではなくて、その時こそ残りは神様におまかせしましょうと声を上げるときなのだと思います。

これまでの生活で、あるいは「もう終わりだ」「もうダメだ」と深い失望の淵に落とされた経験があるかも知れません。「もうダメだ」と、そう思ったときに、「いや、まだ私には神様に心を向けることができるじゃないか、まだ神様に捨てられたわけじゃない」と思える人は、どれほど強いことでしょうか。最後の最後に神様に身を任せることのできる人は、死に直面しても、世界の終わりに直面しても顔を上げていられるのではないかと思うのです。

この世になぜ悪があるのか、なぜこの世は平和な国を実現できないのか。理解に苦しむことはたくさんありますが、そこで失望してしまう人と、神に希望を置く人とでは、天地の開きがあると思います。

私は、どんなことが起こっても希望を捨てない。この態度を、キリストへの信頼のうちに、日々の暮らしの中で証しできるように、力を願いましょう。
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‥‥次週は‥‥‥
王であるキリスト
(ヨハネ18:33b-37)
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