主日の福音03/11/9
ラテラン教会の献堂(ヨハネ2:13-22)
神殿に持ち込もうとしているものは何ですか

火曜日から水曜日にかけて、太田尾の婦人会の主催で天草に巡礼に出かけました。四百年このかた、その土地を離れることなく信仰を受け継いできたというお話を当地の本渡教会主任司祭・川添猛神父様から聞いたときに、私は何か身の引き締まる思いがしました。キリシタンの禁令が敷かれた時代、その迫害を逃れるほとんど唯一の方法は「その土地を離れる」ということだったのですが、天草のキリシタンたちは唯一、その土地にとどまり続けたのだそうです。私の中では、このお話が何よりも大きな収穫でした。

ほかには、旅先で味わういろんな楽しい思い出を残すことができました。一つだけ挙げておきますと、「あんどあんど」「そんど」という言葉を覚えたのが旅の収穫といってよいでしょう。「ウソ」に当たる言葉と合わせて、これでふるさと言葉を2つ覚えることができました。

その土地土地の教会を巡礼して回ると、私はどうしても現地の教会の「建物の造り」とか「由来」とか、そういうことが気になります。かえすがえすも惜しかったのは、今回私はマイクロバスの運転にかかりっきりで、ほとんど取材らしいものをしてこなかったことが、ずいぶん悔やまれます。

それでも、たとえば大江教会を訪ねたときには、祭壇の後ろにとても興味深い像が置かれていることに気付きました。いっしょに参加された方は気が付かれたか分かりませんが、正面を向いて左側に、たしか「天草四郎」の像がさりげなく置かれていたんです。

考えてみれば、天草四郎は聖人でも福者でもないわけですから、教会に飾るにはあまりふさわしくないのかも知れませんが、天草の中では大変に尊敬されている人物です。記念館の責任者の方がみごとに説明してくださったように、天草四郎は十六歳という若さでありながら、農民たちの精神的な支え、力の源になった人物でした。そのような人物が教会の聖堂の中に置かれていることに、ちょっと考えさせられました。

それでもなお、「天草四郎はふさわしくないのではないか」とお思いの方もおられるかと思います。厳密にはふさわしくないかも知れません。ただ私は、当時の乱を起こした農民たちにとって、天草四郎の役割を考えるとき、それも有りかなあ、と思うのです。

彼は戦に加わることはありませんでした。天草四郎の務めは、朝と夕に農民たちの先頭に立って祈り、彼らの勇気を奮い立たせることだったと言われています。そうであれば、たとえ聖人ではなくても、教会の中に置かれている天草四郎の像は、「祈る天草四郎」という意味以外は出てこないのだろうと思います。だからこそ大江教会には天草四郎の像が置かれたのかなあ、と思ったのです。

今日の福音は、同じような出来事を考えさせてくれます。イエス様は神殿から羊や牛、神殿専用のお金をまき散らし、鳩を追い飛ばしました。偶像崇拝を匂わせるようなものを一切神殿に入り込ませたくなかったのです。神殿からすべての偶像の臭いを追い出したとき、初めてまことの礼拝に心が向かうに違いないと、イエス様は考えたのではないでしょうか。

それは、今の時代で言うなら、マリア様の御像を置かないプロテスタントの教会と、マリア様の御像や、ヨセフ様の御像、あるいはその教会にとって身近な聖人の御像を置く習慣のあるカトリック教会との違いにも当てはまるかも知れません。偶像の臭いを少しでも取り去ろう、一切のものを排除しようとすれば、いきおいマリア様の御像も取り除かざるを得ないと思うのです。

ところがカトリック教会はマリア様の御像を大切にしています。マリア様が神様だなんてだれも思ってはいませんが、普通に教会堂の中にマリア様が置かれていることを受け入れているわけです。思うにそれは、この御像を通して、「祈るマリア様」「取り次いでくださるマリア様」を思い描いているから、柔軟に受け入れているのではないかと思います。

天草四郎が置かれているのも、「今も天草四郎は祈り続けているよ」ということのしるしなのですし、マリア様が世界中のカトリック教会に置かれているのも、マリア様は今もいつも、私たちのためにお祈りしてくださっているという思いの現れなのだと思います。

「このような物はここから運び出せ」。イエス様は火の出るような口調で神殿にいる神殿商人たちを一喝しました。神殿商人たちが神殿に運び込んでいたものは、ただ単に物を持ち込んだだけではなく、商売を持ち込んでいたのです。それが、イエス様にとって許し難いことだったのです。

当時の礼拝は、動物のいけにえと切り離しては考えられなかったので、いけにえの動物は必要だったのですが、神殿商人は果たして巡礼者が礼拝を気持ちよく行うことを考えていたでしょうか。そうではなかったのだろうと思います。鳩を売りさえすればよい、羊が今日売れてしまえばよいと考えていたのではないかと思うのです。ですから、まことの神様の逆鱗に触れた、父なる神の思いを一身に受けたイエス様の怒りを買ったのです。

そこで私たちも考えてみましょう。私は日曜日の礼拝に来るとき、神殿に持ち込むべきでない物を持ち込んではいないでしょうか。それはお菓子を持ってきてはいけないというような、単純なことではありません。ミサをさっと拝んで、今日は遊びに行くぞ、ミサの一時間ももったいないけど、ミサが終わればあとは自由になるぞ。こんな思いを持ち込んではいませんかと、お互い呼びかけたいのです。

怒り・憎しみ・恨み。そのような思いは、礼拝に持ち込むべき品物ではありません。むしろ、許し、和解、感謝を、また憐れみ、親切、平和を携えて礼拝に集まりましょう。そうすることで、あなたが持ち込んだ物を必要としている人に、礼拝の中で出会うかも知れません。泣いている人や、苦しんでいる人と出会ったとき、あなたが携えてきた憐れみや親切心は、どんなに力になることでしょうか。

この教会堂に持ち込むべきもの、持ち込んではいけないものを、一人ひとり振り返りながら、ミサを続けていくことにいたしましょう。
‥‥‥†‥‥‥‥
‥‥次週は‥‥‥
年間第33主日
(マルコ13:24-32)
‥‥‥†‥‥‥‥