主日の福音03/9/28
年間第26主日(マルコ9:38-43,47-48)
正反対のあの人を受け入れる

北海道でのものすごい地震の報道を見るたびに、泣いている多くの人に神様の慰めと励ましがはっきり感じられますようにとお祈りいたします。台風被害も受けた今年でしたから、早く立ち直ることができるようにこれからも見守りたいと思いました。

さて昨日夕方のニュースで、ちょっと変わった話を見つけました。確か福島県から東京までだったと思うのですが、十字架を背負って行進をしている団体について報道していました。どうやらその人たちはひところ話題になった暴力団から改心して牧師になった人に心を打たれて、同じように十字架を担いで歩く決心をしたのだそうです。

ニュースではっきり報じていたので、この場で話しても良いだろうと思いますが、十字架を担いでいた人たちは、元暴力団の人たちでした。半袖のTシャツから、ちらちら彫り物が見えていました。ちょっと考えると、十字架を担いで町中を歩くことだけでも目を引くのに、その人たちが元暴力団だと分かると、一歩身を引いてしまうというのが正直な気持ちではないでしょうか。

暴力団に誠実な暴力団も何もないわけで、そう考えるといくらすっかり心を入れ替えましたと言っても、やあやあ兄弟と、近づいて平和の挨拶をしに行くというのはちょっと勇気がいるかも知れません。その人が世間からどう見られているか、その人に近づいたら私は人からどう思われるか。どうしても、頭で考えてしまうわけです。

このお話を前置きにして、今日のイエス様のみおしえを味わってみることにしましょう。弟子の一人ヨハネが、「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました」と報告するわけですが、当然「それでよろしい」と言われるものと思っていたのでしょう。ところがイエス様の返事は、「やめさせてはならない。・・・わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」という返事でした。

悪霊を追い出している人が、自分たちと似てもにつかぬ仕草をしていたのかも知れませんが、この時すでに、弟子のヨハネの心には一つの身内意識が働いていたのではないかと思います。仲間内だけを認めて、その他は認めようとしない、認めようという努力もしない。そうして、イエス様に従う道を狭めていたのではないでしょうか。

もし、どんな形でも、イエス様に近づく人の邪魔をしているとしたら、私たちの熱心さはゆがんでいることになります。私たちの流儀でしか、イエス様に近づくことは許しませんと言ったら、私たちはつまずきの石になっていることになるからです。イエス様は、今日のお話の後半で、つまずきになるものは何であれ取り除きなさいと厳しく命じます。

さて最初に話したニュースを振り返ってみたいのですが、カトリックの信者さんは十中八九、等身大の十字架を背負って大島町から佐世保の三浦町教会までの40キロの道のりを歩いていくなんてことは考えもしないと思います。この五十年・百年を振り返っても、おそらくそんなことした人は一人もいないと思うわけです。

ですが実際に、牧師さんになった信者さんは十字架を担いで今の社会にイエス様を告げ知らせました。その牧師さんに心動かされて、同じような境遇にあった人が今日この日にも十字架を担いで歩いている。あの人たちはカトリックとは違うからと、片づけられないのではないかと思うのです。

そうしてみると、私の心にはまだまだたくさんのついたてがあって、イエス様に近づいてみようと思う人を悪気はないとしても妨げているのかも知れません。何であの人が教会に来とっとやろうか、何であの人が聖書ば読むとやろうか。あの人にはくっつくけれどこの人にはくっつかないなど。私の流儀に合わない人を心の中で断罪しているかも知れません。

イエス様のお考えははっきりしています。「やめさせてはならない」。その人なりの流儀でイエス様に近づこうとしている人を、一人も遠ざけないようにするためには、これはもう私の心をそのたびに開くしかないのではないでしょうか。今風に言えば、私の心にたくさん設けられている規制を取り払って、規制改革して、こんな近づき方をする人もいるんだなあと、今日も一人受け入れていく。それが私たちにとってイエス様に従うよりよい道なのではないでしょうか。

何もそれは、明日から十字架を担いで町中を歩きなさいということではありません。そうではなくて、カトリックの考え方では突拍子もないことかもしれないけれど、見守ってあげましょうよ、そういう気持ちをもてる人間になることです。

自分の持ち場で当てはめてみましょう。婦人会で、典礼の中で、使徒職活動の中で。「わたしたちに従わないから、あの人は仲間外しにしました」。意外にあちこちでつまずきを与えているのかも知れません。

人間は十人十色です。もともと、私の流儀から外れている人のほうがはるかに多いのです。最後の最後、石臼の刑に遭わないためにも、もう一人、あと一回、正反対に思える人を受け入れてみましょう。それが、今日イエス様に問われている宿題なのではないでしょうか。
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‥‥次週は‥‥‥
年間第27主日
(マルコ10:2-12)
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