主日の福音2003,9,21
年間第25主日(マルコ9:30-31)
途中で考える内容が結果を左右する
今日の福音でイエス様は、「途中で何を議論していたのか」と弟子たちに尋ねます。イエス様は途中で起こっている出来事に目を向けました。途中と言いましたが、それはカファルナウムに行く途中のことでもあるし、イエス様の頭には「道なかば」という意味での「途中」も考えていたのではないかな、と思います。
「途中で何を議論していたのか」と尋ねられて、弟子たちは黙りこくってしまいます。だれがいちばん偉いかなどという、いかにもイエス様に叱られそうなことを考えていたので、正直に言えなかったのだと思います。正直に言えば、ますます立場が悪くなるわけですから、下を向くしかなかったのでしょう。
おそらくイエス様は、カファルナウムに行く途中でなくても、また、「だれがいちばん偉いだろうか」と弟子たちがひそひそ話をしなくても、「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」という教えを弟子たちに残されただろうと思います。
ただ、イエス様はどんな小さなことでも教えを伝えるきっかけにすることがおできになりましたので、この「途中での出来事」を通して、道なかばで弟子たちが考えるべきことは「だれがいちばん偉いか」ではなく、「どれだけ人に仕えようとしているかということだよ」と諭してくださったわけです。
さて私たちの生活の中で、今日の出来事と重なる部分を探すことにしましょう。二つ考えたいと思います。まずは、自分の人生を見つめながら考えてみましょう。私はこれまでの生き方の中で、少し難しいかなあと思うことにも挑戦してきましたし、その中で自信をもってできるようになったこともあると思います。また、自分に向かないと思うことをやらされて、やっぱり自分にはできないとつくづく悟ったこともあるでしょう。
そうして歩いてきたわけですが、何か一つ二つは、これは私にもできる、これなら人に見せても恥ずかしくない、あるいは誰にも負けないと思えるようなことがあるかも知れません。そこでイエス様がそばにお立ちになり、皆さんに尋ねるわけです。「途中で何を議論していたのか」。
私はどう答えるのでしょうか。「だれがいちばん偉いだろうか、私はあの人よりも偉いだろうか、少なくともあの人より私はましなのではないか」。そんなことをあれこれ考えているとしたら、イエス様は私たちに、「自分がどう見られているかを気にするよりも、あなたにできることでどれだけ仕えることができたかを、考えてみなさい」と呼びかけることでしょう。
私にできるあのことこのことで、私は何回くらい人様のお役に立てたでしょうか。私が得意としていることで、これまで何人くらいの人にお仕えすることができたでしょうか。まずこの点に私の心が向かっているとしたら、何と幸せなことでしょうか。逆のことを考えれば、もしこれまでの私を振り返っても人のお役に立てた覚えがないとしたら、どこに問題があったか、考えた方がよいかも知れません。
もう一つ考えるすばらしい機会を、日曜日にいただきました。それは、間瀬教会での教会巡礼です。佐世保地区の指定教会の一つになっている浅子教会に巡礼して、その後田平(たびら)公園での殉教祭のミサに参加する予定になっています。
巡礼は、目的地に無事たどり着いて所期の目的を果たすことがいちばん大切なことですが、ある程度の時間をかけて目的地に向かいますので、私たちには「旅の途中の時間」が与えられるわけです。ここでもイエス様は私たちに問いかけることと思います。「途中で何を議論していたのか」。巡礼の途中で「だれがいちばん偉いか」などはとんでもない話ですが、この巡礼旅行を通じて、「どれだけ人にお役に立てるか」「仕えることができるか」を考えてみたらよいと思います。
それは、目の前にいる人にだけではなく、身近な亡くなった方々に対して、この巡礼で何か奉仕することができないかしら、そんなことを考えてみても良いのではないでしょうか。巡礼を通していただく恵みは、他の人に託すこともできるとされています。参加者が皆、同じ巡礼の道をたどりますが、途中で何を考えるかによっては、結果が違ってくるとも言えます。
「私は、今日このような人にお仕えしました」「私は、自分の人生を通してこれらの方々にお仕えしました」感謝をもって、このように神様にこたえることができるように、ミサの中で願いたいと思います。
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年間第26主日
(マルコ9:38-43,47-48)
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