主日の福音2003,9,14
十字架称賛(ヨハネ3:13-17)
十字架は私たちの担うべき判決を担った

今年は夏真っ盛りの時はあまり厳しい暑さを感じませんでしたが、夏の終わりになって厳しい残暑を迎えております。暑さも限度を超えると頭はぼおっとしてくるもので、この夏少なくとも1回はぜんぜん関係ない場面でパンと葡萄酒を高くかかげてみたり、主の祈りを唱えるときに手を開かず閉じたまま唱え終わったりしました。もしも、そのことでミサそのものが成り立ってなかったとしたらお許しください。たぶんそんなことにはならないと思いますが。

それ以上にはっとさせられたことは、初聖体組に危うく御聖体を授けてしまいそうになったことが2度3度と重なりました。汗がしずくとなって落ちるほどですから、意識も遠のいていたのかも知れません。キリストのおんからだと言いましたら、その初聖体の子は「アーメン」と言いましたので、危うく舌の上に載せてしまう直前までいきました。

暑さでぼおっとなることや、私よりもよく通る声の持ち主とのど自慢をしながら、忍び難きを忍び、この夏を何とか乗り切ったことで、私自身はより集中力を鍛えることができたのだと思います。皆様にとっても、暑い夏に少し辛抱しながらミサに参加することは、おおいに自分を鍛えることになるのではないかなあと思います。

さて今日の福音の中では、イエス様はご自身の最後に触れながら、十字架にかけられて最期を遂げることがどうしても必要なのだと仰います。「上げられねばならない」という言い方にそのことがよく表れています。イエス様が仰る「上げられねばならない」とは、十字架に磔にされることを意味しているのですが、言葉は「上げられる」となっていても、それは人間の世界の中では最低の姿におとしめられることでした。

槍で突き上げられ、人々の無理解につるし上げられたのに、イエス様はそれらをすべて受け止め、ご自分を通すことですべて赦してくださいました。もしこれらの罪が仮に裁判所に持ち込まれたとしたら、人間は有罪審判を受けていたことでしょう。ですがあの十字架に上げられたイエス様が引き取ってくださったので、誰にも罪の責めを負わされることなく、救いの道を開いていただいたのでした。

イエス様の十字架は、そのときむらがった群衆の過ちだけではありません。私たちが誰かを憎いと思った時、あの人に災いが降って欲しいと思った時、私たちは罪を犯しているのですから、十字架上のイエス様が担ってくださらなければ、私たちは罪から逃れられないのです。

これらの罪が神様の準備した裁判所にもし持ち込まれたら、私たちは問答無用で罪に定められて、償いを命じられるはずです。犯した罪によっては、いのちをもって償いなさいとか、どのような判決を受けても控訴できないのです。もしも、赦しや、赦免や、イエス様の弁護がなければ、私たちはひとたまりもないのです。

そう考えるとき、イエス様の十字架を特別な思いで眺め、感謝する。そういう日曜日が与えられていることは有り難いことではないでしょうか。あなたの持ち物すべてを売り払って弁済しなさいと言われる代わりに、「あなたの罪は赦された。安心して行きなさい」といつも言っていただけるとは、何とありがたいことでしょうか。

昨日から一組の夫婦がクルシリオに参加しております。どんな思いで過ごしているのか、いろいろ想像するのですが、時間割の中にイエス様の十字架の痛みを感じながらロザリオを唱える時間があったと記憶しています。何日目だったか覚えませんが、そのとき、イエス様の十字架の重みとか、こうして十字架として私たちの過ちを担ってくださったから、私たちは裁判にかけられるのではなくて救いに招かれることになったのだと、ちょっと思いが届けばいいなあと願っています。

皆さんの中にも、研修会として立派な中身を持っているあのクルシリオに参加した方々がいらっしゃることでしょう。どうぞそのときのことを思い起こしながら、私が担うはずの判決を、イエス様は十字架として担ってくださった、そして今も、これからも担ってくださる。そういうことを思い起こしながら、十字架上のイエス様に感謝の気持ちを増すことができるように、ミサの中で力強く願い求めましょう。
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‥‥次週は‥‥
年間第25主日
(マルコ9:30-37)
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