主日の福音2003,9,7
年間第23主日(マルコ7:31-37)
町を回り終わらないうちに主は来られる

私は思っていることが顔に出るタイプのようで、あまり隠し事ができない部類の人間のようです。九月に入ってから意を決して若人の森に走りに行っているのですが、まだ十分走り込んでいないこともありまして、行き帰りはバイクに乗っております。

いざ走ってみて、体が重いことは致し方のないことでさほど驚かないのですが、とぼとぼ走る私のそばを、アザラシがくっついて走ってくるのには驚きました。まだ日差しも強いわけで、地面に影がくっきり写るのですが、その影が人間の形をしてないんですよ。腰のくびれもなくて、正直私はアザラシと勘違いしました。

頭はカッパで胴体はアザラシですから、これは驚きです。皆さんわが家の主任司祭の見られたくない姿ですから、これこそ「だれにもこのことを話してはいけない」と、口止めをしたいくらいです。

まあそれはさておいて、かっこうわるさをかなぐり捨てて続けていれば、もしかしたらよいことが生まれてくるかも知れません。私よりもかなり先輩の神父様は、日曜日のお説教に息詰まると近くの運動場に走りに行ってお説教をまとめるのだそうです。

「いやあ、ぜひ勧めるからやってみなさい。どうも行き詰まって答えが出ないときは、軽く5キロ・10キロ走ると、答えを教えてもらえるんだよ」と仰っていました。私はどこまで修行を積んでもその域に達しそうにはありませんが、体の中の不純物をいっぱい出してしまえば、何かもやもやから解き放たれる感じがするのは確かです。気分もすっきりしますから、そのとき例の先輩は神様からの答えを頂くのかも知れません。うらやましいことです。

体を動かして、思いっきり汗をかいて得られる解放感は、たぶん説明しても伝わらないのだと思います。同じことをしてみないと、同じだけ走ってみないと、味わえない、フランスで銅メダルをもらった200メートルの選手や、銀メダルをもらった女子マラソンの選手が感じる解放感は、同じ速さで走らなければ分からない、同じ距離を伴走しなければ分からない、その人だけの特別な喜びなのだと思います。

イエス様が届けてくださる恵みも、その人とイエス様との間で交わされる特別な喜びと言えるかも知れません。今日、耳が聞こえず、舌の回らない人が自由になったのですが、イエス様があえて口止めをされたのは、あなたが私との間で味わったこの喜びは、あなただけにしか分からないものなのだから、あなたの心にしまっておけばよい、そう言いたかったのかも知れません。

「どう考えても知らせたほうが知らせないよりもよいに決まっています」とか、「言い広めたほうが、早く広がってよいではないか」そういう考え方もあるでしょう。ですが、イエス様があえて話してはいけないと言うからには、何か理由があるはずです。たとえばそれは、イエス様には他によい方法があるのかも知れません。

ちなみに、聞こえなかった人が神様に解き放ってもらったことを、また話せなかった人が神様に解き放たれて今こうして話していることを、そっくりそのまま伝えることは難しいのではないでしょうか。どうかすると出来事だけが一人歩きして、「あの人の所に行けば耳が聞こえるようになるらしい」と、そのことだけが伝わる可能性もあります。

そうではなくて、今日いやしを受けた人にとってもっと大切なことは、「私は神様に見放されてはいない」「神様は私の重荷を必ず取り除いてくださる」という体験だったと思います。体験は、やはり体験しなければ伝わらない。イエス様はそのことを踏まえて、「あなたの体験は、あなたにしか分からないのだから、他の人には私が知らせます」と言いたかったのではないでしょうか。

たとえ体験を聞いたとしても、その人がいやしや解放を体験しなければ、同じ喜びにはあずかることはできません。では希望はないのかというと、そうではなくて、イエス様は必ず、私が希望を失う前に来てくださって、一人ひとりを解放してくださる。誰かの話を又聞きするのではなくて、イエス様が喜びを届けてくださる。今日はその点を学び取っていきたいと思います。

あなたの中に、だれにも分かってもらえない悩み苦しみがあるかも知れません。希望を失わないようにしましょう。イエス様は、希望が絶えてしまう前に、必ず来て起こしてくださいます。「イエス様のなさることは、またなさりかたは、すべて、すばらしい」という言葉を信じ続ける力を、今日のミサの中で願っていきましょう。
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‥‥次週は‥‥
十字架称賛
(ヨハネ3:13-17)
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