主日の福音2003,8,17
年間第20主日(ヨハネ6:51-58)
命の支えを本当に困っている人に届けよう

先週末に起こったアメリカ北東部での大規模な停電をニュースでご覧になった方も多いと思います。ニューヨークでの出来事でしたので、一昨年9月11日の事件が頭をよぎりました。

大変だなあと思う一方で、私は「光」の大切さについて考えさせられたのでした。かつてイエス様は、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(ヨハネ8:12)と仰ったことがあります。

これはイエス様の言葉であって、ほかの誰かが話したのではありません。この点は大事です。あの大規模な停電の中で、同じ言葉を他の人が声に出してもまったく意味がありませんが、イエス様の言葉を思い出して、多くのキリスト信者が復旧のために立ち上がったのではないかと思うのです。

今ちょっと触れましたが、私たちには、ここまでは言えるけれども、ここからは言えないという「線引き」みたいなものがあるのではないかなあ、と思います。「心に光をもって立ち向かおう」とは言えるけれども、「私が光です。私の言うことを信じて復旧に立ち向かいなさい」とは言えないと思うのです。「明日があるさ」とは言えても、「私が明日を与えてあげましょう」とは言えないのです。

それは、人間の限界と言ってもよいでしょう。人間が、人間であることを知らされる瞬間なのだと思います。どんなに勢いがあっても、自分が人間であることを忘れて思い上がることは許されないし、もしそれを見失ってしまうと、大失敗を犯してしまうことになるでしょう。

今日朗読された福音の中でイエス様は、ある意味そうしたせっぱ詰まった状況に置かれていました。人間には、ここまでという線引きがある。たとえば「人はパンを得て養われる。体には体のパン、魂には神からのパンが必要だ」ここまでは、人間であれば言うことが出来るのですが、一線を越えて、「私がパンです。私を食べなさい」とは、とても言えるものではありません。それをイエス様は、あえてはっきりと口にされたのです。

「わたしは、天から降ってきた生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」。イエス様は、明らかに一線を越えて話し始めました。人間の限界を超えたことを話すのですから、イエス様はご自分が神であること、人間を超えた方であることを証ししようとしておられるのです。

イエス様の言葉を聞いて、私たちはイエス様の中に人間を超えるものを知る必要があるのですが、すべての人がこの答えにたどり着くわけではありません。登場しているユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めたとあります。私たちの目の前にいるイエスは、人間を越えて話している、これは許されないことだ。そう思ったに違いありません。ほかの考え方は思いつかなかったのです。

私たちは、ユダヤ人の過ちを繰り返すべきではありません。イエス様は私たちと同じ姿で語りましたが、人間を越えておられたので、人間の越えられないこともお話になったのです。イエス様は、魂の食べ物を確実に与えてくださる、人間が永遠の滅びに陥らないために、わが身を食べ物として差し出してくださるのです。

私たちには越えられないことでも、イエス様は人間の力を越えて働いてくださる。この点を知っていると、私たちが目にするたくさんの現実に立ち向かっていけると思います。

今も日常生活に困っているアメリカ北東部の人々に、私たちができることは少ないかも知れません。ですが、電気の届かない今でも、あなたにイエス様は光となって励まし続けておられますよと、そんな祈りの気持ちでニュースを見守ったり、普段の祈りの中であわせて祈ってあげることはできるわけです。

もちろん、水や電気の届かない生活、今日のパンがない生活は、世界中のあちこちで見られます。戦争を間近に経験した国や、食料が行き届かずに苦しんでいる国など、命に関わる危険を感じている人がたくさんいます。テレビを見て、新聞を読んで、本当に困っている人々を心に留めたなら、そのとき私たちの祈りを届けたいと思います。

私たちにはあなたの光になる力はないかも知れない。けれども、あなたの光にきっとなってくださる方に祈りますから、希望を失わないでください。そんな気持ちで、あなたにできることをイエス様を通して届ける一週間とすることにいたしましょう。